続・しじみバック



昨日の投稿で、丸川商店の「しじみ」の模倣品の問題を書きましたが、個人の方で個人使用の方は問題なし、と思っていたけど、企業は別。
消費者をバカにする行為はやっぱり許せない。

例えばこのブランド、ちょっとひどいです。

「ルーツを巡り、伝統を重んじ、革新を求めるという姿勢を表した」

と堂々と書いてますが、いやいや、ウソもいいとこでしょ。
さらに、

「持った時の形が貝のしじみに似ていることからその名がついた、」

とありますが、それ、僕の奥さんが適当に言ったに過ぎませんから(笑)。
インスタにもFBにもかなりのフォロワーがついてますが、消費者をバカにしすぎてます。


サイトによっては、江戸時代から呼ばれている名前、みたいに説明しているとこもあるけど、だとしたらうちの奥さんは逆にすごい(笑)。

さて、どうしたものか。
しじみバック



僕の小売りのブランド「丸川商店」で2008年から製造&販売している、松阪木綿で作ったオリジナルのバック「しじみ」ですが、あちらこちらで、別の素材で作った「しじみバック」という名前の模造品(?)が出回っているようです。

ネットやインスタなどで「しじみバック」で検索してみると、出るわ出るわ(笑)。
うちの商品の露出よりも遙かに多いです(笑)

ちなみに、「しじみ」という名前は、僕の奥さんが試作品を見た時に見た目で適当につけた名前であって、それがなぜか、どういう伝わり方をしたのか、例えば「トートバック」みたいに、「しじみバック」という昔から存在する伝統的なジャンルだと思われているようです。

結構大きな会社から個人の方まで作っていらっしゃるようですが、商品の説明文が、まんまうちのサイトのパクリの場合や、少し変えただけの場合も多く、さらに、ご丁寧に型紙まで作ってサイトで公開されている方もいらっしゃいますので、これはそのまま黙認して放っておくべきなのかどうか、悩むところです。

ただ、個人の方のサイトとか見ると、すごく楽しそうに作っていらっしゃるんだよなあ。
この形を気に入ってくださっていることもすごく伝わってくるし、そういうのを見ると、何も言えなくなってしまいます。
ON THE STREET CORNER



今日のBGMは、もう何回聴いたか想像もつかない「ON THE STREET CORNER」の3部作。
色褪せることのない名盤です。

ケースは傷だらけでボロボロだけど。
WINDUCATION



「WINDUCATION PROJECT(ウィンデュケーション・プロジェクト)」のロゴ。
「WIND(風)」+「EDUCATION(教育)」を掛け合わせた造語。

まずは、方向性の軸となる短いストーリー(下記)を考案。
そのストーリーのもと、ロゴのデザインは、受け取る側のイメージを固定させてしまわぬよう、全体的にシンプルで普遍的に。
さらに、「WIND」を透明にしました。


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風はどこからくるんだろう。
風はどこへいくんだろう。

そこにいるのに見えないのはなんでだろう。
見えないのに感じるのはなんでだろう。

見えないけれど、いつも、どんな時も、そばにいる。
時には追い風となって、君の背中をおす。
時には向かい風となって、君を強くする。
疲れた時は、柔らかな風で、そっと包んであげよう。

風によって葉を落とし、風によって芽吹くもの。
風は形を変え、風は大地を走り、風は空を動かして、
君の髪をなびかせる。

君は君の帆をあげて、風をうまくつかむんだ。
そうして、なりたい自分へと、進んでいけばいい。


教育とは、風のことだ。


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腰痛



またもや腰を痛め、歩くのもままならない状況ですが、今回は、家にある材料で即席の杖を作り、それこそお年寄りのように前かがみでちょびちょび歩くことができるだけ、まだマシなほう。

驚いたのは、本当に杖をついたお年寄りの歩き方を真似てみた時に、杖を持っていないほうの手を腰にまわしておくと、そうではない時に比べて格段に歩きやすくなること!

バランス?
人間工学?
行動のデザイン?
アフォーダンス?

いやはや、お年寄り達の智恵には、いつもアタマが下がります。
三重問屋



志摩市の酒屋さん「べんのや酒店」さんが立ち上げた地域商社「三重問屋」のネーミング考案とロゴとパンフレットのデザインを担当させていただきました。

「三重問屋」という、一見するとどこにでもありそうなネーミングですが、代表の竹内さんから、三重県の食や酒蔵、農業などの現状と、三重が誇る良い品々をもっともっと広めていきたいという竹内さんの熱のあるお話を聞いているうちに、三重県らしさや、三重県の食材や食卓の風景などを僕なりに解釈して、変化球なネーミングではなく、英語でもなく、ズシリと真っ直ぐに響く、横綱の、美しく、かつ安定感のある四股のような、それでいて洗練されたイメージも併せ持つネーミングとロゴが必要だなと感じ、このネーミングとロゴに落ち着きました。

ロゴマークは、お酒の一升瓶を逆さまにした状態、つまり、誰かにお酌している状態を、カタカナの「ミエ」で表現しました。
まあまあまずは一杯、そんな言葉とお互いの笑顔が浮かんできます。
食やお酒は、最高のコミュニケーションツールであり、言葉を超えた、世界共通のアイコンでもあります。

パンフレットもできる限りシンプルに仕上げ、伊勢神宮を持つ県としての凜とした佇まいと、底力を感じさせる無骨さを表現しています。
合わせて、こんなコピーも考えました。

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心地いい風。健やかな人達。丁寧に育まれた品。
それはきっと、子ども達に残してあげたいモノ。
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良品は良人が作っている、という竹内代表の言葉を手がかりにして、それを世に広めていくのはなぜか?、何のために地域商社を立ち上げるのか?をたくさん考えました。

そして僕がたどり着いた答えは、心地いい風も、素晴らしい風景も、地元を愛し、誇りを持ってモノ作りを続ける人達の技術や知識や経験も、そしてそれによって生み出された良品の数々も、それらは全部、子ども達に必ず残してあげたいモノだ、ということ。

だからこそ広めていきたい。
残していきたい。
つなげていきたい。
竹内代表の想いとは、きっとそういうことなんじゃないか、と考えました。

今後も、三重問屋のデザインチームとして、商品のパッケージやイベントなどのデザインを担当させていただきますので、県内外、いや、国内外を問わず、末永く宜しくお願い致します。
北風と太陽



デザイナーの必読書は数あれど、「北風と太陽」は決して外せない。
デザインとは何か、その多くをこの絵本は教えてくれる。
半纏



10年来愛用している半纏(ちゃんちゃんこ・どてら)。
もうヨレヨレだしシワだらけだけど、冬の間は絶対に欠かすことの出来ない大切な相棒。
デザインする時もずっと着てるし、それ以外でも家にいる時は必ず着用。
しかしまあこの半纏ってのは間違いなく大発明で、温めるべき所をしっかりと温めながら、いかなる作業をするにも決して邪魔にならない工夫が随所にあり、まさに用の美なわけです。

相棒よ、今年の冬も本当にお世話になりました。
寒さからも風邪からも寂しさからも、まるで背中から抱き締めるかのごとく、やさしく、そして力強く、包み込むように守ってくれたね。
君のいない冬なんて、もう考えられないんだ。
だからまた寒い季節になったら会おうね。
それまでしばしのお別れだ。
大好きだぜ、半纏。
ありがとう、半纏。

ああ~、いつの日か、外でも着れるおしゃれな半纏のブランドを作りたい!
既存の要素の組み合わせ



ジェームズ・W・ヤングが「アイデアのつくり方」という本の中で、「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」と言ったのは有名は話。
僕らデザイナーが新しいアイデアを考える時も、ほぼ忠実に、このセオリーを守っている。
そうして、普段は絶対にそばにいない、なるべく遠いもの同士を見事にくっつけることが出来た時の感動は言い表せない。

そういう意味で言えば、写真の2冊の本は、既存の、そして遠い(っぽく見える)要素を見事にくっつけて、新しいコンセプトを生み出していると思う。
しかも、乱暴に無理矢理にくっつけたわけじゃなく、むしろ何で今までなかったんだろうってくらいにスタンダード感を併せ持ちながら。

で、やはりどちらの本も売れている。
しかも、タイトルやコンセプトだけの本ではなく、中身も非常に面白かった。
うまいところを見つけたなあって、素直に感動しました。
目的と手段



デザイナーという職業柄、色んな業種の方とお話させていただく日々ですが、求められるのは、本質的な問題点と解決策を見つけ出すこと。
その中でいつも思うのは、問題が起こっている根本的な原因として、「目的」と「手段」を間違えているケースが多く見受けられます。

文字通り、「手段」は「目的」を果たすため、または、「目的地」へたどり着くための、あくまでも「手段」であって、それ自体が「目的」になってしまっては意味がありません。
誰もがわかりきっているようで、実はいつの間にか「手段」であるはずのことが「目的」になってしまっていた、というケースは意外とあります。

建築家は、家を建てることを「目的」にしてはいけません。
美容師は、髪を切ることを「目的」にしてはいけません。
シェフは、料理を作ることを「目的」にしてはいけません。
政治家は、政治家になることを「目的」にしてはいけません。
飲食店は、料理を提供することを「目的」にしてはいけません。
マッサージ店は、マッサージすることを「目的」にしてはいけません。
教師は、勉強を教えることを「目的」にしてはいけません。
車屋は、車を売ることを「目的」にしてはいけません。
不動産屋は、土地や家を売ることを「目的」にしてはいけません。
会計士は、会計を処理することを「目的」にしてはいけません。
パン屋は、パンを焼くことを「目的」にしてはいけません。
市長は、市長になることを「目的」にしてはいけません。
英会話スクールは、英会話を教えることを「目的」にしてはいけません。
パイロットは、飛行機を操縦することを「目的」にしてはいけません。
酒蔵は、お酒を造ることを「目的」にしてはいけません。
経営者は、お金を稼ぐことを「目的」にしてはいけません。

デザイナーは、デザイナーになることを「目的」にしてはいけません。

それらは全て、「手段」に過ぎません。
その「手段」を使って、何を叶えたいのか、誰を、どんな風にハッピーにしたいのか、どこへたどり着きたいのか、その意識の欠如や、はき違えによって生まれている問題がたくさんあります。

そこに気づければ、自分のまわりに溢れている、多くの「違和感」に気づけるようになります。
例えば飲食店であれば、店舗の外観や内装やスタッフの服装や接客だって、「目的」を果たすための大切な「手段」のひとつです。
そのひとつひとつが、ズレてはいないか、「目的」を果たすための大事な「手段」になり得ているか、そもそも「目的」は何だったのか、デザインを担当する際に、まずはそこを確認して、間違っていれば正す、ということから始めるようにしています。

はてさて、「生きること」は、「手段」だろうか、「目的」だろうか。
忍者バス



デザイン・コンテストの選考委員を務めさせていただきました三重県伊賀市のラッピングバス、通称「忍者バス」。
その最優秀作品でラッピングしたバスが4月から運行開始しているそうです。

京都府在住のイラストレーター、おおえさき(@ohyeah_saki)さんの忍者のイラストがちりばめられたキュートなデザインで、伊賀市に笑顔が増えること間違いなし!

見かけたら、きっといいことありますよ(笑)。
さらに乗車したら、もっとすごい奇跡が起こるでしょう!
続・高齢者のセックス事情



前回の投稿で、高齢者のセックス事情の件について書きました。

早速、知り合いのデザイナーが、スウェーデンの事例について色々な情報を教えてくれました。
スウェーデンといえば、誰とでもやりまくるフリーセックスの国、というまったくでたらめな噂もある国ですが、決してそんなことはないと教えてもらったことがあります。
さて、教えてもらった、現代ビジネスの4年前の記事を読む限り、日本人はやはり、「幼い」んだなあと実感し、日本人が考える「先進」とは何なのか、という疑問を抱きました。


▼性の先進国スウェーデンに学ぶ「幸福な”夜”の過ごし方」
https://bit.ly/2I6yhfD

自分でも、色々とスウェーデンの事例について調べてみました。

▼日本の女子大生「性の先進国」スウェーデンで衝撃を受ける
https://bit.ly/2Vx8DUd

▼男女としての愛情が大前提?スウェーデン人の考える夫婦の在り方
https://bit.ly/2IldPHb


ほかにも、日本で問題になっている「セックスレス」の問題などについても色々と調べてみました。
ぜひみなさんも検索してみてください。

「日本人はセックスの年間回数が世界一少ない」という記事も以前話題になりましたが、「世界幸福度ランキング」では常に上位にいるスウェーデンに比べて、日本はいつも低い。
もちろん、何をもって幸せなのかの基準が違うので、このランキング自体に意味があるのかないのかは考えないといけませんが、それにしても色々と違いすぎます。

そもそも、セックスレスは本当に「悪」なのか、という議論も必要ですが、ここでは、それに苦しむ人達がいることの事実の側に立って書きますので、ご了承ください。

セックスレスについて堂々と議論も出来ず、相談もしにくいこの国においては、セックスレスがなくならないのも、ある意味では当然なのかも知れません。
ただ、なんでセックスレスな状況が起きるのか、正直僕にはよく理解できませんでした。
それでも、僕のまわりにも、セックスレスで悩んでいる人達がたくさんいることがわかってくると、なるほど、これはかなり根深い問題だなあと思うようになりました。
根本には「教育」と「文化度」の問題があり、「コミュニケーション」の問題であるという意見もいただきました。

特に「教育」に関しては、「今までの常識はもはや常識ではないと言える勇気も、デザイナーなら持てるはずだ」という意見も。
三重県では、ロゴやパンフレットやチラシやホームページを作る人がデザイナーだと思われてるし、実際に、それしかしてない自称デザイナーのなんと多いことか。
そうではなく、勇気を持って発言し、行動できるデザイナーでいたいと心から思う。
なので、勇気を持って、色々と発言をしていきます。

まず思うのは、日本人の、「奥ゆかしさの美学」も理解できるし、決して嫌いでもないけれど、例えばセックスを「自分から楽しむ」という女性が少ないんじゃないかとは思います。
恥ずかしいって気持ちは当然わかるけど、あまりにも受け身になりすぎて、それを楽しもうって気持ちが少ないんじゃないだろうか。
SとかMとか、そんなものは本当にどうでもよくて、SにもMにもなりながら楽しめばいいと思う。
もしかしたら、セックスレスじゃない人のほうが少ないんじゃないかってさえ思うくらいだけど、ハリウッドの女優達が、自分はバイセクシャルだと公言できるあのかっこよさは、日本ではまだまだ無理なんだろうなあ。

現実として、セックスレスで苦しんでいる人達がたくさんいる。
バカにする奴らもいるだろうけど、そんな奴らは放っておけばいい。
セックスレスの解消によって、充実した日々を取り戻した人達もいる。
何が問題なのか?
どうすれば解決できるのか?
セックスしなければ幸せになれないのか?
100年後はどういう状況になっているだろうか?

色々な意見があると思うし、興味がある人もない人もいる。
とにかく、僕の関心は、高齢者のセックス事情やセックスレスについて研究してる人も団体もたくさんある中で、デザイナーやクリエイターがこの問題にどう関わっていくのか、ということ。
こんな大切な問題に対して、デザイナーがアプローチしないほうが不自然だし、興味を持たないことのほうが問題です。
高齢者のセックス事情にしても、現代のセックスレスの問題にしても、ここはクリエイティブの、デザイナーの役割がすごくあるんだと思う。
なぜなら、その土地の色々な文化や文化度が、その土地の風景を作るんじゃないかって思うから。
いわゆる当事者ではない僕のような人間が、この問題に関心を持ち、勇気を持って発言し、何かの行動を起こすことが、すごくすごく、大切な気がするのです。

現代ビジネスの記事には、「スウェーデンという国の成熟を「セックスの質」が表している。」と書かれていた。
ガンジーさんも、「その国の偉大さ、道徳的発展は、その国における動物の扱い方で判る」という言葉を残してる。
やはり大切なのは、「教育」や「文化」や「文化度」。
超高齢化社会がやってくるこの国の、下ネタなどではないド真面目で大切な問題あることを、僕もこれをきっかけにして、たくさんの人達と議論を交えて学びたいと思います。

世間的にはまたすごく引かれてしまうんだろうけど、そんなことは恐れずに、デザイナーとして、クリエイターとして、何ができるか、何をすべきか、一生懸命、ド真面目に考えてみたいと思います。
高齢者のセックス事情



これまで、デザインの活動を通して、たくさんのこと学んできました。
デザイナー人生があとどれくらい残っているかはわかりませんが、時々ふと思うのは、これまで学んできたデザインやクリエイティブのスキルを、デザイナーではなく、別の形で活かす生き方ってあるのかなあってこと。

例えば、なんとかしなければ、いずれ消えてなくなってしまうかも知れない業種や、デザインが最大限に力を発揮できる業態などへ転身し、そこに集中し、これまで学んできたものを全部まるごとつっこんでみる生き方、とか。

そういう意味で、すこし関心があるのは、「高齢者のセックス事情」です。
こういうことを発言すると、それだけで引かれることもあるし、SNSでも評価も低くなりますが、そういうことは気にしないでおきます。

なぜなら、以前、友人の女性からセックスレスに関する涙ながらの相談を受けたことがきっかけで、今後、急速に高齢化が進んでいくのであれば、これは大きな社会問題になるのではないかなあと強く感じたから。
これまでも、日本におけるセックスレス化の問題はあちこちで話題になってきましたが、他国と比べると、日本のその問題はすでに看過できないレベルとのこと。

つい先日も、世界的な経済誌であるForbesに、「日本人の「童貞率」が25%に上昇、セックス離れが鮮明に」という記事が掲載されていました。
現在は、セクシャルの多様化もあり、本当に現状を正しく把握できているのかと疑いたくもなりますが、それと同時に、今はそんなことになっているのか、となんだか嫌な胸騒ぎを感じました。
しかも日本は、性に関することはまだまだタブーだし、ただの下ネタだと思われることが多く、それはつまり、他国に比べて、成熟度が著しく低い、ということなのかも知れません。

いや待てよ、もっともっと成熟していけば、いずれはそういう営みは必要なくなって、純粋に心の結びつきだけでいいってことになるのだとしたら、逆に日本は成熟してるってことなのかなあ?
うーん、難しいですが、いずれにせよ、日本人の奥ゆかしさだからこその良さも確かにあるはずですが、当の本人達にしてみれば、笑い事ではないことは明白です。

デザインとは、決して装飾のことではなく、問題や課題を見つけ出し、それらを見事に解決していくこと。
だからこその、セックスを十分に楽しんでおられる人達に向けたものではなく、それをしたいのにできないことでひどく悩んでいる人達を対象にしたデザイン。

それがどういう形の取り組みなのかはまだわかりませんが、僕が僕のスキルを最大限に活かせる分野で考えるのなら、プロダクトだったり、ビジュアルによる提起だったり、になるのかなあ。
まあもちろん、僕ひとりでは何もできないので、チームや仲間が必要ですが。

問題の原因はなんなのか?
そもそもセックスは必要なのか?
そんなこんなを含めた、もっとつっこんだ議論や調査が必要なのだと思います。

みなさんはこの問題、どう思いますか?
フィードバック恐怖症



本日の打ち合わせの席で、デザイナーの仕事の内容や役割の範囲などについて質問を受けました。
確かに、デザイナーでない方には、なんてわかりにくい世界だろうと思います。
僕の場合、肩書きを聞かれた時は、グラフィック・デザイナーとかクリエイティブ・ディレクターとか答えていますが、デザイナーの仕事は、「北風と太陽」で言えば、太陽のやり方で色んな問題を解決することが求められます。
つまり、自分からそうしたくなるように仕掛ける、という感じ。

まあ、そういうことを言うから余計にわかりにくいのかも知れませんが、役割についても、どこからどこまで、と明確に分けることが出来ません。
でも、それでは質問への回答にならないので、大まかな役割をご説明させていただいたので、ここでもシェアしておきます。
ただし、これはあくまでも「おおまか」な役割であり、この限りではないことだけはご理解ください。


例えば、あいうえお商事という会社があったとして、30周年を記念して発売したある商品が思うように売れてない、という問題が発覚(または発生、認識、発見など)したとします。
担当者や幹部達が集まり、現状の把握と原因の究明に取りかかり、対応策を話し合い、解決するための企画を立ち上げます。
さらに会議を重ね、最終的な方向性を決定します。
例えばこの場合、営業チームが配るパンフレットを作り直そう、となったとします。
そこで、デザイナーに、パンフレットの制作を依頼します。
デザイナーはこれを受注し、では、どんなパンフレットにするべきかを検討し、制作します。
この際に、パンフレットの内容だけを考え、実際の制作は他の人に依頼することもあります。

さて、この場合、社内の人達と一緒に対応策を考えるのが、「クリエイティブ・ディレクター」や「デザイナー」達です。
ここでは、「パンフレット」が解決の「策」ということになりました。
どんなパンフレットがいいかを考えるのは、「デザイナー」や「スタイリスト」と呼ばれる人達です。
そして、実際の制作のみを担当する人を、「オペレーター」と呼んだりします。

つまり、「策」を考える立場にいるかどうか、または、「策」を一緒に考えるかどうかで、役割が変わってきます。
少なくとも僕の事務所では、「策」を考えない案件、つまり、制作だけを行う場合は、「スタイリング仕事」と呼んでいて、「策」を考えて初めて、デザイン仕事と呼びます。
ちなみに、「オペレーター」の仕事は、「デザイナー」や「スタイリスト」が考えた制作案の指示に従って、実際の制作作業のみを担当します。


三重県では、スタイリングやオペレーター仕事しかしていなくても、デザイナーと呼ばれるし、自らもデザイナーと呼んでいる人が多いですが、ちょっとそこには違和感を感じます。
パンフレットの内容を考えるのは、決して、「策」を考えたことにはならず、パンフレットという「策」を考えたのはあくまでも社内の人やディレクターなどです。
ましてや、言われたとおりに、はい作りました、では、デザイナーとは呼べないんじゃないかなあと。

ただし、クリエイティブ・ディレクターやデザイナーが、自分で全ての作業を担当する場合もたくさんありますから、明確にどこからどこまでとは言えません。
もちろん、大手の事務所なら明確に役割分担されているのでしょうが、小さい事務所やフリーランスの場合は全部をこなすことなんてザラにあります。
ようは、デザイナーがいい、スタイリストやオペレーターがだめ、ということではなく、自分の役割をちゃんと認識して仕事をすべきだし、そこを曖昧にしてるデザイナーが多いから、デザインへの誤解がなくならないのだと思うんです。

まあ、依頼する側からすれば、いいものが出来れば、役割なんてどうでもいいのかも知れませんが、デザインする側の者は、その案件における自分の役割を正しく認識しないと、太陽のつもりが北風になっていた、なんて笑えない状況を生み出しかねません。
フィードバック恐怖症



世の中には、フィードバック恐怖症の人がかなり多い。
「弱い」と言われたらそれまでだけど、そりゃあ誰だって、自分の作品や仕事や趣味やアイデアをけなされたり、スルーされたり、好きになってもらえなかったりしたら、へこむよ。
でもね、これだけ人の好みがバラバラなんだから、もうこれ、しょうがない。
自分だって、好きな作品やデザイナーやモデルさんや歌や映画とかあるわけで、そしてその逆も当然あるわけです。
何も自分だけへこまされてるわけじゃない。

フィードバック恐怖症の人は、作品を否定とかダメ出しされると、人格まで否定された気分になる。
もっと言えば、存在そのものを否定されたような、存在価値なんてないんだと言われてるような。
ダメ出しってのは、カレーを食べるからスプーン取って、っていってるのにフォークを出してきたことに対する、いやいやこれじゃなくて、ってだけの話。
ひとことも人格を否定することは言ってない。

人格を否定された、なんて、そんなことは考えなくていいんだよ。
ダメ出しされたら、そこから学べばいい。
次への力に変えてやるんだ。


どんな大御所にだって、アンチはいる。
どんなに美人な女優さんにだって、どんなに優しい人にだって、アンチはいる。
僕のデザインが嫌い人もたくさんいるし、僕のアイデアを鼻で笑われたことなんて山ほどある。

ガンジーさんが嫌いな人も、マザーテレサさんが嫌いな人も、明石家さんまさんが嫌いな人もいる。
ドラえもんが嫌いな人は・・・、いないか。
障がい者にだって、性格の悪い奴はいる。
外面と内面がおもいっきり違う人の数なんて数え切れない。

いいじゃないですか。
アンチがいたって、否定されたって、ダメ出しされたって。
足りないものは足りないだから仕方ない。
そっから学んで、伸ばせばいいだけ。


ひとつだけ、絶対にやってはいけないこと。
否定してきた相手を、あいつがバカだから理解できないんだとか、むかつくからなんとかして消し去ってしまいたいとか、そんなことを思っても意味がない。
そんな風に思うくらいなら、「しょうがない」で片付けよう。
理解なんてそうそうされない。
誤解なんてしょちゅうされる。
むしろそれが普通。

そんなつまらないものから自由になろう。
くよくよしてるヒマがあったら、もっともっと学んで、もっともっと挑んで、もっともっと目立ってやろう。
数ヶ月か数年あれば、ひっくり返せる。
全ての人に「いいね!」されるものなんて、きっとつまらない。

アメリカの教育者、エルバート・ハバードさんも言ってる。
「やる気をすっかりなくさない限り、失敗はありえない。「自分の内部から生まれる敗北」以外に敗北はない。「心の弱さ」以外に越えられない障害などない。」

素直に、謙虚に、もっともっと学ぼう。
生きている限り、学び続けよう。
確かに、自分の評価は他人が決めるのかも知れない。
でも、他人の期待通りに生きる意味なんて、そもそもないんだ。


自分の人生を、叶えたい未来を、思う存分、デザインしよう。
ダメだったら直して、必要ならふりだしに戻って、全力で取り組もう。

あなたの人生の主人公は、あなたなんだから。
アート感覚



今日は1日中、外周りだったので、真夜中すぎた今から事務所仕事です。
今夜のBGMは、教授。

ところで、デザインとアートは明確に違うと僕は思っていますが、かといって、デザイナーにもアート感覚は絶対に必要だと思います。
別に僕は絵画に詳しいわけでも、作者に詳しいわけでもありませんし、自分の好きな絵の作者がどこかの無名の人だったりすることが多いわけですが、その絵を見て、その絵がアタマの中で動き出して、どこからともなく音が聞こえてきて、匂いがしてきて、ジトッと少し汗をかく。
まったく関係のないメッセージが浮かんできて、作者が意図しない物語を勝手に紡ぎ出したりする。

デザイナーにとってこういう感覚が必要だなあって思うのは、やっぱり、喜怒哀楽が作品に表れるから、だと思います。
喜怒哀楽のあいまいな作品には、総じて色気を感じなかったりするし、あとはこの喜怒哀楽をどんな風にデザインの要素として落とし込めるか、が腕の見せ所。

あとは、コミュニケーションスキルというか、洞察力というか、観察力というか、そういうスキルを磨くにも、このアート感覚は役に立つのではないのかなあと。
つまり、相手が今、何を考えていて、どう感じているのかを的確に感じ取るスキルというか、そういうスキルを鍛えるのは、普段からの「想像の習慣」が大切だと思うのです。

僕のサイトで公開している「デザインとデザイナーの説明書」の中で、「壁に掛かっている絵画がアートで、それを壁に掛けることがデザイン。」と僕は書きました。
よくわからなくても、美術館やギャラリーに行って、「目利き力」を鍛えることもデザイナーには必要だし、難しいことは抜きにしても、何かを感じ取る力は、何事においても、やっぱり大切です。

以前、友人の女性デザイナーが岡本太郎展を見にいく際に、私にはアートがよくわからないんですが、どういう風に見ればいいでしょうか、という質問を受けました。
難しく考えずに、でも何度も見てみて、君がどの作品に「濡れる」か、じゃないかな。
っと、サラッと言ったものの、どん引きされるかと思いきや、「なるほど!」って言ってもらえたので助かった。
確かにちょっと乱暴すぎるアドバイスだったと思うけど、何かを感じる時は、アタマではなくて、体や心や魂であるはず。

こういうことも、学者さん達ならもっと科学的に説明してくれるんでしょうけど、僕にはそんなアタマはないので、なんとなくの説明で申し訳ないんですが、普段から積極的にアートに触れつつ、これをどうすれば多くの人に見てもらえるか、これを知らない人に、どう説明すれば的確に伝わるか、そんな風に、デザイン的に考えてみるクセが、普段のデザインの仕事にも大いに役に立つのではないかなあと思います。
完コピ



音楽をやってた頃、来る日も来る日も好きな曲やヒットしている曲を色々な方面から分析して「完コピ」した。
コード進行やアレンジや歌い方には、それぞれのアーティストのクセがある。
その作業は、自分の技術のレベルを確実に上げてくれたと思う。

デザイナーとして駆けだした頃も、同じように好きなデザイナーや作品を自分のパソコンの中で再現してみた。
タイトルはなぜこのフォントなのか、ロゴのこのカーブにはどんな意味があるのか、レイアウトを逆にしてみたらどうなるのか。
それこそ、来る日も来る日も。
そしてそれはまた、デザインの学校にも行っていない、どこかのデザイン事務所に勤めたこともない我流の自分の技術のレベルを確実に上げてくれたと思う。


全員とは言わないけど、今の若いデザイナー達は、あまり「完コピ」をしないらしい。
いきなり「オリジナリティ」を追い求めて、もしかすると、そうしなければいけないと思い込まされたのかも知れないけど、結果的に出来上がったその「オリジナリティ」は、アートと呼ぶなら許されても、デザインと呼ぶには値しない。

「完コピ」をしない理由は明白だ。
彼ら彼女らにとって、「完コピ」は恥ずかしい行為であり、かっこ悪いことであり、面倒くさいのだ。


柳宗理氏がデザインしたバス停の写真を何度も何度もトレースしてた自分にとって、なぜそのカーブでなければならなかったのかは、どうしても知りたいことだった。
岡本一宣氏がデザインしたポスターを自分のパソコン上で再現してみて、どうしてその色を選んだのかを全身で理解したかった。

技術力を上げるには、「まずは完コピ」が欠かせないと今でも思う。
僕のそれは、例えばピンタレストで探してパクる行為とは意味が違う。
技術うんぬんよりも、その理由や意味を知りたかったのだ。

それとも、もうそんな時代ではないってことなんだろうか。
BGM



今日の仕事のBGMはrycooder。
曲先



22年前、音楽プロデューサーになりたくて上京した頃、明けても暮れても曲を作ってた。
曲を作る場合は、詩先(詩から先に作る)と曲先(曲から先に作る)にわかれる。
僕の場合は、ほとんどが詩先の作り方だった。

今になって思うと、詩先で作った曲は、なんて言うか、「言い過ぎてる」感がすごい。
とにかく言葉で伝えよう、言いたいだけ言いまくろう的な、暑苦しさが満載な感じで、ちょっと恥ずかしい。

曲先の場合は、すでに「枠」が決まっているので、言いたいだけ言いまくるのは難しい。
結果、言葉数を削り、言葉を厳選して詩をつけていく。

デザインにも、多くの制約がある。
その中で、最もベストだと思うものを生み出す。
だから必然的に無駄をそぎ落とし、結果的にシンプルになる。
でもそのほうが、より「刺さる」ことは、経験上、身に染みてる。

あの頃の僕が、デザインをわかっていたら、きっとほとんどの曲を、曲先で作ったと思う。
d design travel 高知号



2015年から記事を担当させていただいている、デザインの目線を持った観光ガイドブック「d design travel」の最新号「高知版」が完成!

暮らすように現地を旅して作られた今号も圧巻の情報量で、読み終わった後の充実感が半端ないです。

巻末の三重コーナーでは、陶芸家・内田鋼一氏が設立した「BANKO archive design museum」をご紹介しています。

それにしても、高知県、魅力ありすぎ!


▼d design travel
http://www.d-department.com/jp/d-design-travel