大きなお世話。
最近、女優の佐々木希さんがYouTubeのチャンネルを始められたことを機に、まあ当然と言えばそうなんだけど、渡部建さんの件がまたネットで色々と出てくるよね。
記事の多くは、「渡部建さんはどうしていつまで経っても世間に許されないのか?」みたいなやつが多い。

思うに、渡部建さんにああいうスキャンダルがあって、それでも佐々木希さんは彼を見捨てずに離婚しなかったことが美談のように語られることが多いけど、渡部建さんがいつまで経っても許されないのは、むしろ、佐々木希さんが離婚してあげないからではなかろうか。

渡部建さんを叩く人たちは、おそらく渡部建さんに会ったこともない人達で、その中の何割かは、彼のした行為の気持ち悪さが生理的に無理だからだろう。
でも、こういう人達はたぶん、執拗にネットで叩くなんてことまではしない。
チャンネルを変えるかして、彼を見なければいいだけだから。

必要以上に、執拗に、渡部建さんを叩き続ける人達の「許せない」はきっと、あんなことをしておいて、それでもまだ佐々木希さんの夫という居場所を失っていないことが悔しいからなんじゃないか。
であるならば、彼がちゃんと捨てられない限り、叩かれ続ける可能性もある。

陣内智則さんの時のように、ちゃんと捨てられて(離婚して)さえいれば、その時は同じようにすごく叩かれるだろうけど、いずれまわりの芸人達が笑いにしてくれたりする。
でも、渡部建さんは、捨てられなかったことが逆にアザとなって、まわりもなんだかイジリ切れずにいるように思う。

このままでは、いずれ佐々木希さん自身の人気にも影響が出てくるんじゃなかろうか。
それが心配。
アンド、大きなお世話、でした。
不登校のままで大丈夫?



地立おもしろい学校(おも校)を運営していく中で、保護者の方々から色々とご質問をいただきます。
その中で特に多いのは、「自分の子どもが不登校。このままで大丈夫?」というご質問。
自分の子どもが不登校のまま社会に出ても問題なく生き抜いていけるかどうかをご心配されているのだと思います。

実際はしっかりと時間をかけて、実例や根拠とともに丁寧にご説明させていただくのですが、結論から言えば、不登校であろうとなかろうと、やりたいことだけしかやってこなかった人や、それによって結果的に得られた選択肢(手持ちのカード)が少ない人にとっては、これからの社会は難しいゲームになると思います。
つまり、不登校自体というより、必要なものを身につけずに社会へ出てしまうことが問題の本質です。

人と比べて突出している才能がある人以外は、選べる選択肢、切れるカードをひとつでも多く持っておいて損はありません。
「やりたくないことはやらない」は決して自由ではなく、やれなかったことがやれるようになったうえで、それを「するかしないかを選択できる」ことが本当の自由です。


おも校では、決して安易に「不登校でも大丈夫」とは言いません。
「不登校」とか「子ども」とかをひと括りで語ることもできません。
「元気な不登校」は決して弱者ではないし、嫌なことからただ逃げたいだけの人がそのままで生きていけるわけでもありません。
先の質問にも、希望的観測や根拠のない感情論ではなく、しっかりとした根拠と方法論でお答えしています。

不登校になっておも校へ来て、自信をつけて学校へ戻っていく子も実際にいますが、学校へ戻ることを推奨しているわけではありません。
実際、旧態依然とした学校から得られるメリットはそれほど多くもありません。
それでも、社会を生き抜いていくために有効な選択肢を増やすことはできると思います。

不登校といえど、最低限の学力や知力、スキルや体力を身につける努力をしないのは絶対にダメ。
それは、得られたはずの選択肢を自ら捨てることであり、自分を諦めてしまうこととほぼ同義です。

不登校だからダメとかではなく、不登校のメリットもデメリットも正しく把握したうえで、伸ばすべきところを伸ばし、ダメなところは改善していく。
それらをきちんと理解し納得したうえでなら、不登校でも十分に生き抜いていけると思います。

ただし、これらのことは、あくまでも不登校の子の側から見た主体的な視点での話。
これを、不登校ではない子たちの側の視点も含めて相対的に見ると、また話はガラッと変わってきます。

自分だけが自由に生きていきたいのであればそれも実際可能でしょう。
ですが、そのためにほかの誰かが割りを食わされているのも事実です。
不登校の問題を、一方のみの視点から語ってはいけません。

例えば、2040年の超高齢化問題をど真ん中で支えるのは、今の小中高の年代の子ども達です。
AIやロボットがその全てを担ってくれる可能性に期待しつつ、ひきこもりや精神疾患等の増加によって支える側の人が減るほど、支えている人達にかかる負担が増していくのもまた事実。

コロナ過に振り回され、あらゆることが制限され、たくさん我慢して、でもがんばり抜いてようやく社会へ出た結果が、過去最大級の重荷を背負わされる人生ではあまりにも可哀想です。

その社会構造自体が問題ですが、政治や社会を変えていく地道な努力は続けていくとして、それでも残念ながら簡単に変えられるものでもありません。

現在の大人世代はなんとか逃げ切れるかもしれませんが、今の子ども達が大人になる頃には、今以上の超格差社会がやってくるかもしれず、であれば、見たいことだけを見て、聞きたい言葉だけを聞いて、そうやって現実から目を背けるのではなく、過去に学び、未来を見据え、今できることの精一杯で、不登校の子ども達にも最低限の装備を持たせてあげるべきです。


社会に出ることだけが人生ではない、不登校の子こそが新時代を作っていく、次の時代は不登校の子にこそ有利になる、自給自足でもハッピーに生きていける、という人もいますが、その生き方自体を否定はしないし、むしろそうであってほしいと願う気持ちもあります。

ですが、「寄り添う」とか「見守る」とか「信じて待つ」ことを、方法も手段も持っていないことの言い訳に使っているのなら話は別。
どんな未来になるかを誰にも断言することができないからこそ、時代が変わっても、たとえ変わらなくても、どちらにも対応できるようになっておくほうがいいと思います。

〇〇の時代、という言葉をよく聞きますが、これからやってくる時代を表面だけでとらえていると、こんなはずじゃなかったとなりかねません。
暴走する好奇心に突き動かされるまま、毎日のように学校帰りに山や川に行って遊び、何度も大けがしていた山猿な子ども時期を経て大人になり、30年近くもクリエイティブの業界で生きてきたデザイナーとしての僕から見て、確かに山や川や自然は言葉にできぬほどの魅力に溢れた魅惑的な場所であり、今でも大好きなかけがえのない存在ですが、同時に、そこには「命をつなぐ」という使命のみがあり、人権も生活保護もコンプライアンスもなく、力のないものは無慈悲に淘汰されていく、恐ろしいほどに容赦のない世界でもあります。
それと同様、クリエイティブや多様性は、一見するとカラフルで魅力的で楽し気に思われるかもしれませんが、「真の多様性」を生き抜いていくのは決して簡単なことではありません。
ゆえに、根拠も方法もない「大丈夫」は、子どもにとっても大人にとっても、とても危険なのです。


おも校は、自由気ままに楽しく、やりたいことだけやっていくための場所ではありません。
勉強だけを教える塾でもないし、ひとつのことだけを教える専門の学校でもありません。

おも校は、学校とは別の場所で、将来の選択肢を少しでも増やすための最低限の学力やスキルを、どうせなら楽しくておもしろい方法で身に着けていくための場所です。

おも校のコンセプトは、「学校をおもしろくする」。
それを可能にしているのが「デザイン教育」の手法であり、おも校の運営を支えているクリエイター達の熱量です。
視点



水面に富士山が映る「逆さ富士」は有名ですが、大抵の場合、そこに映る逆さ富士はあくまでも富士山であり、「日本一大きなどんぶり」とは思いません。
ましてや、逆さ富士は日本一低い山だ、なんて言う人もあまりいないでしょう。
ですが、ただ富士山を逆さまにしただけでは、それでは「目線」を変えただけで、「視点」を変えたとまでは言えません。

昔から、「結婚と離婚の目的は同じ」だと言われます。
インとアウト、方向が真逆なのに、その目的はどちらも「幸せ」になるため。
見る方向を変えるだけでは、ただ目線を変えただけ。
視点を変えれば、真逆のものにも共通した目的や、新たな役割を見つけ出すことができます。


学校は教育の場ですが、それは、「子育て」という大きな枠組みの中のひとつにすぎません。
どういう人間に育てるのかで、教育の方法も場所も変わります。
もちろん、「親がいなくても子は育つ」ものですが、できれば、親と学校と地域と社会が一丸となって子どもを育てていくことが理想です。

毒親や親ガチャという、背筋がゾッとするような言葉が普通に飛び交うこの頃ですが、確かに世の中には、現実から目をそらし、問題と向き合おうとしない親もいます。
もしかすると、まっすぐ向き合うことへの耐性力がなく、なんとなく自分をごまかし、色んな方法や力を借りながら「それでも自分は幸せだ」と言い聞かして、雨がやむのをじっと待っているのかもしれません。

でも、どれだけ目を背けても問題はなくなりません。
それどころか、あっちを向いている間にどんどん増えていくこともあります。
見たいものだけを見ることで解決したと思い込む人も多いと聞きますが、そんな環境下で育つ子ども達には何の影響もないのでしょうか。
傘のおかげで雨に濡れずに済んだとて、雨がやんだわけではありません。

子どもが変われば親も変わる、とも言いますが、それだけでは足りなくて、追いつかない時代になったのかもしれません。
もっと親に、家庭に、直接アプローチする方法が求められているような気もします。

おも校でも、以前から親御さんとの自由で気さくな対話の場として、「おも茶会」を開催してきました。
どんな問題であろうとも、必ず解決策があります。
光だけの場所も、影だけの場所もありません。
どうすれば目を背けずに、それらを解決していけるのかを、もっと伝えたいし、届けていきたい。
そういう意味でも、今後はこのおも茶会の役割がもっと重要になってくるのではないかと思うので、さらに力を入れて取り組んでいきたいと思います。


先の結婚と離婚の例えがインとアウトだとすれば、ポジティブとネガティブはアップとダウン。
真逆の方向ですが、これも視点を変えて見てみれば、どちらにも、目の前の問題を直視できない耐性力のなさや自己防衛の気配を感じ取れます。
見たくないものにはフタをして、見たいものだけを見て生きていければ幸せなのかもしれません。
ですが、誰かがそうすることで、違う誰かの負担が増えていくことを、どれだけの人が理解しているでしょうか。
おも校の説明会で何度もお話してきたことですが、不登校の問題は、ごくごく普通に学校に通っている子ども達のことを抜きにして語られがちです。
この子達が将来、どれだけのものを背負わされるのかを、私たち大人はもっと想像してみるべきでしょう。

日本人のアート力は世界でもトップクラスです。
優れたアーティストもたくさんいます。
ですが、目の前の問題と向き合い、解決方法を見つける「デザイン力」が足りていません。
インとアウト、アップとダウン、不登校の子ども達と学校に通っている子ども達。
ご一緒に、目線ではなく、視点を変えて取り組んでいきましょう。
同窓会



今日、久しぶりに開催された高校時代の同窓会に参加してきた。
中には、高校を卒業して以来、34年ぶりに再会した同級生もいた。

同窓会のたびに思うけど、それぞれ見た目は変わったとて、一瞬であの頃の気持ちに戻れる不思議は何なんだろう。
みんなそれぞれ、高校を卒業してからのこの34年間、色んなものを乗り越えて、笑って、泣いて、生きてきたんだと思う。

昔話に花が咲き、お互いの健康を気遣い合い、またしばしのお別れ。
楽しい時間だった。


帰り道、真夜中の車中。
音楽を止めて、窓を開けて、さっきまでの宴と、これまでの34年間をぼんやりと思い返す。

僕自身、高校卒業後、社会に出て、歳をとり、50代になってからは人付き合いに対する考え方もずいぶん変わってきたと思う。
仕事やプロジェクト関係の付き合いや近所付き合いとかを除けば、今現在の僕の人付き合いのルールは以下の2つ。

1)気を遣わず、無言でも苦にならず、一緒にいて安心できる居場所感を感じられる(感じさせてくれる)関係
2)学べたり、刺激があったり、お互いにその先へと何らかの発展や前進が見込める関係

時々は過去を振り返りながらも、発展や刺激のない関係は、やがて自然とフェードアウトしていくものだと思う。
今日再会できたメンバーの中にも、今日が最後の再会となる人もいるだろう。
だからこそ、みんなハッピーな人生をと、心から願う。


今回、会いたかった人の何人かには会えた。
それ以外の会いたい人には、なんでだろう、もう会えないような、そんな気もする。

それでも、またいつか、もしも会えたらなんて言おう。
フジファブの「若者のすべて」の歌詞みたい。
All the best to you and your family.


土台が大事って話。



世間はGW真っただ中。
おも校の開校日は月曜日と水曜日ですが、祝日に重なるとその日はお休みになります。
そういうわけで、GW中は週1回の開校日になってしまうわけですが、そうなると課題も出てきます。

おも校が最も重視しているのは、人としての土台作り。
農業とか園芸の「土壌」作りみたいなものですが、週2日しかない開校日が週1日になると、どうしても子ども達のリズムに多少の乱れが出てきます。

多少の乱れくらいはどうってことない、という気持ちもありますが、だからといって軽視することはできません。
例えば、ガソリン車と電気自動車のハイブリッド車を作るためには、「1+1=2」ではなく、1+1の答えを10にも100にもする超高度な技術力が必要です。

それと同じように、ガチガチに固めるのでもなく、かといって自由奔放にもしないのがおも校の特徴なわけですが、見た目や言葉で言うほど簡単ではなく、舞台裏ではかなり繊細なバランス感覚や調整技術が求められます。
なので、顔はニコニコしつつも、頭の中では「多少の乱れ」に対してアンテナを張りまくってたりします。

不登校という選択をした子ども達にとって、「自由」に過ごすことはそれほど難しいことではありません。
でも、自由度が増せば増すほど、自己責任度も同じように増えていくことを忘れてはなりません。
これはいわば、ボリュームを上げるフェーダーと同じ動き。
自由と自己責任は、ひとつのフェーダーで同時に上下します。

フリースクール等でキラキラとした楽しい時間を過ごし、少しずつ自主性や社会性を会得していく。
最初はレクリエーションにも参加できなかった子が、少しずつ仲間に打ち解けて笑顔を取り戻していく。
その子のペースで、一歩ずつゆっくりと成長していける環境。
それはとても素晴らしいことで、そういう環境や場所を求める子にとっての居場所は全国にどんどん増えています。

問題は、学校には行きたくない(行けない)けど、自由と不自由とが入り乱れる社会の荒波をスイスイと乗りこなしていける子を育てるためのメソッドや方法を持っている場所がまだまだ少ないこと。
普通の学校(一条校)とフリースクールの中間に位置する場所、必要な知識や学力や人間性やコミュニケーションスキルを学ぶ時間が、川遊びと同じくらいめちゃくちゃおもしろい場所。
そんな、まるでハイブリッド車のような学校や居場所がもっと必要です。

ただ、「スイスイと乗りこなす」とは、まわりや社会を全く気にせず自分のペース重視で生きていくこととは違います。
未来がどんな社会になるにせよ、そこに対応し、順応し、かといってロボットみたいな人間になるわけでもない。
心の中の世界や視野をどんどん広げ、状況を細かく分類して冷静に正しく把握し、どうでもいいことにムキにならず、無意味なことに一喜一憂することもなく、あくまでも「しなやか」に生きる人。
ちょうどいい量や規模の自分の幸せをちゃんと確保しつつ、社会やコミュニティの一員としての責務は、それ以外の余力で十分に対応していける人。
ただ批判するだけの人ではなく、嫌なことや苦手なことからただ逃げ続けるだけの人でもない。
スイスイと乗りこなす人とは、自分の未来を、自由にデザインしていける人のことです。

学歴社会を批判しても、それがすぐに変わるわけではありません。
本当の意味で変われるのは、もう少し先の未来なんだと思います。
そういうわけで、学歴を持たない者が背負う理不尽な苦労は、まだもう少し続きます。

かくいう僕も、最終学歴は高卒。
学力だけでいえば小卒かな、というレベルでした。
それでも、問題発見と解決のための「デザイン」と出会い、「乗りこなす」ことの意味や方法を学びました。
その副産物として、効率的に短期間でより多くを学ぶ術を知ることもできました。
だから、おも校の子ども達には「スイスイと乗りこなす人」になってほしいと思っています。
実際におも校の子ども達は、あちこちで常に笑い声が響く学び舎で、学ぶことのおもしろさや乗りこなすための方法を学んでいます。

そして、それらを可能にしているのが、土台。
どんなに見た目がおしゃれな建物でも、地盤がゆるかったり基礎が弱かったりしたら、震度1の地震でも倒壊してしまうでしょう。
一にも二にも、全てはしっかりとした土台があるからこそです。
52歳の誕生日



本日、4月24日午前7時42分に、52歳となりました。
写真のゴリラは、娘たちからのプレゼントのひとつ。

そして、毎年この時間帯に届く母からのお祝いのメッセージが今日も。
今年も心でぎゅっと抱きしめる。

ありがとう。
まわり道
中学生の時、当時付き合っていた女の子とそれぞれの部活終わりに待ち合わせをして、一緒に帰るのが日課だった。
彼女の家は、学校から歩いて数分の距離だったから、反対方向へ出て、ぐるりとまわり道をして一緒に帰るのがお決まりのコースだったな。

何もない田舎の道。
何ってわけでもない、たわいもない会話。
でもそこには、キラキラと輝く風景と時間と、大好きな彼女の笑顔があった。

まわり道は、遠回り。
考えてみれば、僕の人生はずっと遠回りだったと思う。
東京へ出るのも遅かったし、東京へ出てからも、ぐるぐると余計なまわり道をしてばかりだった。

デザイナーとして独立したものの、まわりは一本道を駆け上がってきたエリートたち。
大学も美大も芸大も出ていない、専門学校にすら行っていない、どこかのデザイン事務所に勤めたこともない。
独学と言えば多少は聞こえがいいけど、未経験にも程があるほどの無謀さ。
スタートするまでもなく、最初から勝負が見えていたレースのようだった。

でも、だからこそ見つけられたこともあったと思う。
まわり道だろうと、遠回りだろうと、周回遅れだろうと、そこから今に、確かに道は続いていたんだから。

まわり道は、遠回り。
誰だって遠回りは嫌だろうけど、でも、そこにしかない、そこでしか手に入らない、そんな宝物のような時間だってある。

いつもの帰り道。
ある日、彼女が言った。
「もう着いてしもたなあ。もう一周、まわろっか?」

まわり道でも、宝物は見つけられる。
桐本のアニキ



3月11日放送のNHK「プロフェッショナル~仕事の流儀~」に、我らがアニキ、輪島塗の桐本さんが登場。
 
能登半島地震のまだまだ真っただ中にいて、それでもそこから立ち上がろうと奮起する姿は、僕が知るアニキそのものだったので、言葉は正しくないかもしれないけど、でも、嬉しかった。
 
これは輪島塗じゃない、と拒絶された過去の話は以前から聞いていたけど、今ではもう、輪島になくてはならない人。
時間はかかったのかもしれないけど、輪島をここまで深く愛してる人の想いが伝わらないわけがない。
 
桐本アニキとの出会いは、僕が東京の清澄白河に事務所を構えたあとだから、もう15~16年以上前とかになるのかな。
僕の師匠である、柏木江里子さんに紹介してもらったのが最初の出会いだったと思う。
 
映像の中でも触れていたけど、輪島キリモトが作る漆器の魅力のひとつは、その美しさのみならず、傷ついてもまた直して、そうやって長く使っていけること。
当時、不況にあえぐ地場の中で、どうすれば喜んでもらえるか、どうすれば心地よく使ってもらえるか、その原点とも言うべき問いの先にあったのが、輪島塗の王道を避けてまで挑んだ、輪島キリモトだけの新たな輪島塗だったんだと思う。
 
桐本アニキや輪島キリモトの職人の方々を見ていると、輪島キリモトが生み出す漆器の本当の魅力は、フォークでガリガリしても傷がつかない強さ、というより、傷ついてもなお、その傷をも受け入れ、それすらその漆器の大切な物語の一部にしてしまう、そんな「しなやかさ」なんじゃないだろうか。
 
桐本アニキという人もまた、全てを跳ねのける強さの人ではなく、誰よりもしっかりと傷ついて、まわりの人たちの傷も一緒に抱きしめて、さあそっからどう立ち上がるかを自然と考える、本当にしなやかで魅力的な人だなと改めて思った。
 
輪島塗のような、桐本さん。
桐本さんのような、輪島塗。
 
さあ、もっかいここから。
アニキのことだから、もうとっくに走り出しているだろうけど、輪島塗、輪島キリモト、そしてそれを心から愛する人たちの物語は、まだまだこれからも、ずっとずっと続いていきます。
物欲。



おも校の音楽授業に最適かも。
欲しい。
誰がため?
仕事柄、年度末になると行政用の書類書き作業が増える。

で、昔からいつも思うことだけど、「~宛」とか「~行」を、いちいち「~様」に修正するこの手間って、一体誰のための手間なんだろう?
この手間を挟むことで、一体誰が得をして、誰がハッピーになるんだろう?

マイナンバーカードは他人に見られないように厳重に管理してください、ってあんなに念を押されたのに、マイナンバーカードのコピーを添付して郵送しろっていうけど、それって「厳重な管理」に背かないのか?

非接触型キーで安心!ってエ〇オスさんは言うけど、それを使うために画面をあれこれタッチしなければいけないから、キー以外は全部思いっきり接触するんですけど、それでいいの?


デジタルなんだかアナログなんだか、この国の摩訶不思議の数々、相変わらず意味わからん。
あがらない年始。
2024年になって早半月。
1日の北陸地震や航空機の事故等々があり、なんだか気分がずしんと重くて、何かを書く気が起きずにいた。

輪島キリモトの皆さんとは昔から仲良くしていただいている関係で、ご家族やスタッフの方々の安全を知り、せめてもの安堵感もあれば、被害の深刻さをニュースやネットで知るたびに、犠牲となられた方々のご冥福を祈り、一日も早い復興を願うばかり。

航空機の事故では、犠牲になった動物たちに心が張り裂けそうになり、つぶやいた石田ゆり子さんを叩きまくる世の中の腐った闇の深さがさらに気持ちを重くする。
パーティ券問題から始まった政治の世界の茶番にはもう何かを言う気力すら起きない。


なんだろう。
なんだかなあ。
いろんなことが嫌になる。
いろんなことが、とてもすごくアホらしく感じる。
もう全部どうでもいいや。
そんな風に思う瞬間もある。

でも、家族がいて、おも校の子どもたちがいて、生きていく理由や根拠なんていくらでも見つかるけど、今はまだどうしても、気分があがらない。
あけましておめでとうございます



あけましておめでとうございます。
旧年中も大変お世話になりました。
私たちの活動に対するご理解とご協力に感謝いたします。

今年はドラゴン(辰)の年。
ドラゴンブルームスは今年も新たなことへ挑戦しつづけます。
2024年も、どうかよろしくお願いします。
皆様にとって、2024年も素敵な一年でありますように。



Happy new year!
Thank you very much for all your help during the past year.
Thank you for your understanding and cooperation in our activities.

This year is the year of the dragon(Tatsu-Doshi).
Dragonblooms will continue to take on new challenges this year.
We look forward to your continued support in 2024.
I hope 2024 will be a wonderful year for everyone.
ありがとう、2023年。



2023年も大変お世話になりました。
僕の活動に対し、ご理解とご協力をいただきました方々には心よりお礼申し上げます。
ありがとうございました。

2000年に独立して以降、たくさんの出会いと別れを繰り返し、まわりに助けてもらいっぱなしではありましたが、なんとか今日まで歩き続けてこれました。
決して大きな何かを成し遂げられたわけではありませんが、その道のりは、とても恵まれた日々だったと思います。

2023年は、それまでの自身の活動を鑑みて立てた仮説をもとに、今後の可能性を検証してきた一年でした。
若い世代との協働からは、多くの発見と学びがありました。
おも校の子どもたちもどんどん増えて、やるべきことの輪郭がはっきりと見えてきたようにも思います。

加えて、SNSをやめてブログに戻ったり、アシスタントがいらない仕事のやり方を模索したり、慌ただしくも冷静に、情熱を持ちながらもゆっくりと、丁寧を心掛けながらも全力で駆け抜け、解像度をあげることに全力で取り組んだ一年でもありました。

結果、今後はさらに余計なものをどんどんそぎ落として、より小さく、より本質的な活動に注力していくことになろうかと思います。
そんなわけで、2024年も日々を楽しみながら、いざ参ります。

2024年も、皆々様方にとって、ハッピーな一年でありますように。
教育にお金をかける、とは?
文部科学省が2023年12月22日に公表した「令和4年度公立学校教職員の人事行政状況調査」によれば、精神疾患を理由に病気休職した教職員数は6539人で過去最多となった。

日本の教育現場では、いったい何が起こっているのか。

そんな中、学校の先生たちと話をするたびに、ブラック企業並にきつい仕事を、それでも子どもたちを想う気持ちを忘れずにいたいと言う純粋な瞳と想いに感銘を受ける一方で、やっぱりまだまだ、方法論よりも、精神論や感情論にかなり頼りきってる感が否めないなと感じます。

その中でも特に問題だなと感じるのは、どう考えても無理ゲーな状況の中で、それでもまだ教師のスキルをあげることに重きを置いている点。
もっともっと私たちも勉強して、教師としての腕をあげていかないといけないなと思っています、といえば聞こえはいいのかもしれないけど、すでにコップの水はとうに溢れているのに、そこにまだ何かを足そうとして、いやいやそれはさずがに無理があるんじゃないのかな、と思う。

コップの水がもうすでに溢れているんだから、もっとスキルを磨いて、そうやってその水をもっと良い水に入れ替えるんだとしても、それによってやっぱりこぼれてしまう水がかなりあるわけで、そのこぼれた水の親はたまったもんじゃないと思うんです。
だからまずやらなければいけないのは、コップの水を減らすことなんじゃないのかな。
余計な仕事や行事やPTAや指導要綱やらやら、削れるものやことはまだまだいっぱいあると思う。

コップの水があふれていることを見て見ぬふりしながら、それでもなお、水を足そうとしていること自体が、最も無責任なことなのだと気づいてほしい。
失われた信頼を取り戻すべく、という名目で、まださらに何かを足そうとするのであれば、日本の教育はますます疲弊し、壊れ、崩れ、明るい未来なんて夢のまた夢。
そのツケは、そのまままるごと、子どもたちに覆いかぶさる。

だからまずはコップの水を減らすこと。
そのうえで、教師のスキルに頼るんじゃなく、どの先生でも同じようなレベルで授業が行えるような仕組みや仕掛けを早急に作るべきです。
そのために、お金や人材や先進技術をつぎ込むことこそが、教育にお金をかける、ということだと思います。
財産
商売だろうと何だろうと、ほかの誰かもしてることを自分のほうがちょっと上手くできたとして、そんなことでずいぶんと偉そぶってる人よりも、どんなに小さなことでも、まだ誰もしてないことに挑める人って、僕は素敵だと思うけどな。

大丈夫。
あなたがしているそれはきっと、かけがえのない財産になるから。
Merry Christmas 2023



今宵、優しく誰かを想うあなたのことを、きっと誰かも想ってる。


世代間で受け継がれていく、優しさのバトンリレー。

どうか、素敵な夜を。
強さと弱さ
落ちないことが強さではなく、落ちたときに這い上がろうとすることが強さ。
落ちたことが弱さではなく、落ちたときに這い上がろうとしないことが弱さ。

落ちたことを見て見ぬふりして、現実から目を背けるな。
誰だって落ちる。
つまづく。
転ぶ。
間違う。

そのこと自体は弱さでもなんでもなく、人間だという証拠。
大事なのは、そこからどう立ち上がるか。
ひとりで無理なら誰かとでいい。
誰かは人間である必要もない。
複雑と単純
複雑である、ということは、単純ではない、ということではなく、単純な部分もあるし、そうじゃない部分もある、という意味の複雑。

複雑か単純か、なんてそんな単純な話ではないのです。
税金
仕事柄、色々な人たちと仕事をしますが、若くてもベテランでも、「税金」に対して少々間違った解釈をしている経営者が目につきます。
税金は、どっかから勝手に湧いてくるものではなく、他の誰かに負担させることによって捻出されてきています。

もちろん、経営者本人も多額の税金を負担しているわけですが、政治家や経営者が税金を無駄に使えば使うほど、将来、やがて僕の娘たちが大人になったときに、彼女たちがそのツケを払わされることになる。

そこには、強い憤りを感じます。