48回目の誕生日



先週の24日は、48回目の誕生日でした。
奥さんと娘たちが、手作りのバースデーケーキでお祝いしてくれた。
外出自粛でずっと家にいるのに、それはそれで楽しみを見つけていける娘たちは、なかなかたくましい。
僕という人間をこの世で一番理解してくれているのは奥さん。
僕の全部を知ったうえで、もう27年も一緒にいてくれてる。
 
考えてみれば、僕はずっと誤解される人生を歩んできた。
子どもの頃から、見た目や言動がよく裏目に出る。
奥さんとカフェに行って、ジョッキのビールとカルーアミルクを頼んだら、間違いなく僕のほうへビールが運ばれるけど、正解はいつも逆。
人は見た目が9割、なんて本もあったし、印象の力は凄まじい。
そして今僕はその「印象」を仕事にしてる。
 
先日、ある会議の席で、「丸川さんに仕事をお願いして印象操作の大切さを痛感しました。とても大切なお仕事。感謝してます。」と言われた。
若い彼は僕に感謝の意を表してくれたんだと思うし、それはとても嬉しいけど、ひとつだけ、「印象操作ではなく、印象の最適化、ね。」とお答えした。

違いを聞かれたので、その商品やサービスが粗悪であれば必要なのは印象操作、すごくいいものなのに市場にうまく伝わっていない場合に必要なのは印象の最適化だと思う、と答えた。
そしてその点において僕は、印象操作が必要じゃないクライアント、そして商品ばかりを扱わせてもらえている今に心から感謝しているし、とてもラッキーだと思う。
 
広告はラブレターだと言われて久しいけど、その商品やサービスの良さを正しく伝えていくために必要なのは、何を言うか、そして、何を言わないか。
特に、時として「何を言わないか」はとても重要だ。
好きだ好きだとただ言っても届かない。響かない。
仕事である以上、戦略の質がものを言う。
 
でも、相手が人である場合、時として「好きだ」とただひと言、まっすぐに目を見て伝えることのほうが心に深く響く場合があることも知ってる。
僕も若い頃に、そのひと言が最後の最後まで言えなかったことを死にほど後悔しつづけた。
もしも言えたところで、あんなに素敵な彼女が最後に僕を選んでくれるとはどうしても思えなかった。
そしてそれは、僕の思い違いだったとずいぶん後で知って、死ぬほど後悔した。
「本当」がちゃんとわかっていれば、想いをちゃんと伝えられたかも知れない。
 
「本当」を知ることは難しい。
心理テストは「本当」を知るためにするもの。
本心や本当がわからなければ道を正しく選択できない。
 
でも例えば、Aを選んだらこうなる、Bを選んだらこうなる、さあどっち、なんて心理テストでは「本当」は見つからない。
何かを選ぶ際にその選択を大きく左右するような「重要な要素」はあらかじめ隠しておく必要がある。
答えに影響が出ないように余計なバイアスは外しておくのがセオリーだ。
 
先日、別のクライアントに、コロナ禍で大変な今の状況を踏まえ、事業の今後の方向性を見極めるため、心理テストの要領でAという目的地を選んでもBという目的地を選んでも「重要な要素」には変わりはない、とした上で方向性を選んでもらった。
でも実際はAという目的地を選んだら方向性に変わりはないけど、Bという目的地を選んだらそうはいかない。
進む道が変われば、向かう目的地が変われば、服装もお小遣いも靴も地図もコースも、そしてガイドも変わる。
でもそしたら、「重要な要素」には変わりはないと言ったから選んだのに、嘘つきだ、もう信用できない、豹変だ、怖い、と言っていると、あとで人づてに聞いた。
 
お年玉は預かっておいてあげる、怒らないから本当のことを言いなさい、とは意味が違う。
僕は確かに嘘をついたけど、それは道を正しく選択するためで、本当を引き出すためだった。
それをもう一度説明する機会はもう閉ざされてしまったけど、いつの時も、「本当」を引き出すのは簡単じゃないしリスクもある。
僕はこうしていつも誤解され、良かれと思うことが裏目に出る。
もちろん、今回のことで信用を落としたのは、それだけが原因ではなく、何かが積もり積もったもの。
それもわかってる。
まあでも、それで信用を失う程度の付き合いなら結果オーライだろう。
ちゃんとわかってくれる人もいるし、それでいいんだと思う。
 
目利きで頭のいい奥さんが、僕の全部を知ったうえで27年も一緒にいてくれる。
それが僕にとって、どれほど心強いことか。

誤解されるのには理由もあるし、僕に非がないとは思ってないし、そもそも火のないところに煙は立たない。
でも、それもわかったうえで、奥さんには「本当」が見えている。
それでいて、こっちの服を着たほうが良い人に見える、というアドバイスもちゃんとくれる。
これは印象操作、ではなく、印象の最適化だと、僕は強く、信じてる。

毎日が誰かの誕生日。
コロナ禍の中、僕にとっても、ある意味で記憶に残る誕生日になりました。
両親、奥さん、娘たち、師匠、数少ない友よ、どんな時でも信じてくれて本当にありがとう。
夜明け前が一番暗い。
でも永遠に続くわけじゃない。
こんなにもたくさん、子どもたちと笑い、遊び、話し、抱きしめられるこの日々を、まるごと抱きしめよう。
分析



若かりし頃は、街の看板、有名デザイナーのポスター、いかした本の装丁などなど、それらを自分のパソコン上に再現し、色を変えてみたり、配置を変えてみたりして、デザインのコツや秘密、どうして最終的にこうなったのか、どのようにしてこの最終形に落ち着いたのかを、必死で探った。

貧乏デザイナーゆえ、パーツを組み合わせて自作したパソコンでの作業は困難の連続だったけど、とにかく必死だった。
「分析」と呼んでたこの作業によって、僕は「場数」を増やしてきた。
毎日毎日、それこそもう、数えきれないほど。


先日、ふと東横インの看板を見ていて、どうしてURLがロゴの上にあるのかが気になったので、かなり久しぶりに分析してみた。
結果的には、URLが下にあると、なんだか普通の目立たない看板になってしまった。

若いデザイナー達に「場数を踏んで経験値をあげろ」と言うと、仕事として「依頼」を受けて場数を踏んでいくものと理解するようだ。
だけど地方の案件だけでは全然足りない。
それじゃあなかなか経験値は上がらない。
そのことに気づいていない若いデザイナーが多いように思う。

「架空の依頼」を何十何百と積み重ね、(あくまでも架空だけど)NASAの仕事も3件こなした。
時には依頼人として注文をつけ、時にはユーザーとして批評もする。
スーパーに行って、自作したパッケージをこっそり並べて写真を撮って検証した。

確かに、暇だったのかも知れないけど、寝る間も惜しんで手と頭を動かしてきたことには自負もある。
今は、あの頃よりも忙しくさせてもらってる分、分析遊びをしてる暇はなかなかないけど、移動中や休憩中に頭の中でやることはある。
もう、癖みたいなものだけど、今の自分の現在地を把握し続けるためにも、必要な遊びだと信じてる。