卓さん
卓さんにしては、めずらしく熱い感じ。
僕が知らないだけかな。
ずっと目標としてきた大好きなデザイナーさんのひとり。
僕のような凡人は、気をつけてはいても、どこかでひょこっと「自分」を押しつけてしまうデザインになったりする。
改めて、改めます。

ハリウッドの映画学校では、卒業制作の自主制作映画を先生に見てもらう時に、一番こだわったシーンはどこだ、と聞かれ、ここが一番こだわったシーンです、と答えると、そうか、じゃあそのシーンからカットしなさい。
そんな押しつけがましくて暑苦しいシーンは誰も見たくない、と言われるそうな。

卓さんの言う、「交差点」をすばやく見つけられるようになりたいもんです。

現在、朝の6時です。
おかえりなさいの人も、いってらっしゃいの人も、今日が良き日でありますように。


第1回 目立たせようと思ったら「下手なデザイン」をすればいいんです
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/252773/073100001/

第2回 「アート」になったら「デザイン」はおしまいだ
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/252773/073100002/

第3回 「民主主義」が「デザイン」をダメにする
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/252773/073100003/
涙のゆりかご



今日、次女がしっかりと歩いた。
1歳2ヶ月。長女が歩いたのが1歳4ヶ月だったから、少し早い。
こんなことでバカみたいに感動できる43歳の今の自分。
同年代のデザイナー達が世界を舞台に活躍してるというのに、僕の手を離して、奥さんのほうへゆっくりと歩いていっただけの娘の小さな背中に胸を熱くする、今の自分。

それはそれで、よしとする。

毎日毎日、小さな、でも大きな感動を、ありがとね。
お父さんは君たちのために生まれてきたんだよ。
だからお願い。iPhoneを舐めないで。
そして、戦争のないほっこりとした人生を、ありきたりでも幸せな人生を、楽しんでね。

こんな夜は、ブラザートムの「涙のゆりかご」を聴きながら。
2015.08.21 12:49 | Permanent Link | 日記・デザイン
パクリ疑惑



佐野さんのパクリ疑惑が世間をザワザワさせている今日この頃、ついに僕にもパクリ疑惑の目が向けられているようです。
ここ数日の間、複数の人に指摘されたのですが、何やら、佐野さんと僕の顔が似過ぎていて、僕が佐野さんの顔をパクったのではないか、というあらぬ疑惑を持たれています。
なのではっきりしておきましょう。
彼は僕と同じ歳の43歳ではありますが、誕生日は僕が4月で彼は7月。
僕のほうが先です。
それは理由にならないと言われそうですが。

昔は、鈴木雅之さんやゴスペラーズの村上てつやさんと顔が似過ぎているというパクり疑惑を持たれたことがありましたが、特に村上てつやさんの時は言い訳が難しかった。
なせなら、村上さんは僕より1つ年上で、しかも誕生日が一緒。
名前も「てつや」と「たつや」。
さらには、「T.M」というイニシャルが同じときたもんだ。
もしかして、お兄ちゃんなんだろうか・・・。
物語
人生には、ファーストシーズンやセカンドシーズンなんてありません。
ずっと、エンドレスに続いている物語です。
視聴率なんてないし、スポンサーもつかないけど、生まれてから今日まで、ずっと毎日、続いている物語です。
この先、この物語をどう展開していくか、それはやっぱり、あなた次第。
監督も脚本も主演も全部があなたである以上、あなた次第です。

きっとあなたも、そして誰もが、これまでの人生の途中で、何度も分かれ道に立ち、右か左か上か下かと、何かを選んできたと思う。
でもそれは、「選んだ」のか、「諦めた」のか、本当はどっちだったんでしょうね。
ふと振り返ってみて、それが結局、諦めたことなんだとして、諦めてしまったことの代償をずっと背負ってきた自分に、もし気づいてしまったら、その後はずっと、その重荷に苦しむことになるんでしょう。
いや、それをはねのけられる強い人もいるんだろうけど、全部が全部、そういう人ばっかりじゃないですから。

できることなら、自分の人生は、「選んだ」人生でありたいと思うだろうし、これからもそうでありたいと願うはず。
でも、諦めてしまった過去はもう戻らない。
いくら苦しくても、どうしようもないこと。
選べなかったんだから、結局、諦めてしまったんだから。
それに、だからといって、これからはそうならないようにしようぜって、そんな単純な話でもないし。

そんな単純な話ではないけれど、でも、それしかないのもまた事実。
今後の物語の続きを、後悔のないものにしたいと誰もが願うわけだけど、そのためにも、形に惑わされたり、縛られたりってのじゃなくて、「本質」をちゃんと見よう、ってことなのかなあと。
そこから得るものや学ぶものの、本質を。