小泉今日子



仕事中に音楽は欠かせない。
なんてったって、今日の仕事のお供は小泉今日子。
仕事がはかどります。
ただ、「優しい雨」のときは毎度手を止めて聴き入ってしまう。
いいのやら悪いのやら。

とにかく、キョンキョンの力を借りて、溜まってる仕事を片付けます!
泡風呂



娘たちは、キャッキャ言いながら泡風呂をご堪能。
後片付けで大人は大変。

今夜も楽しい夢が見れますように。
ぐっすりおやすみ。
したたかさ
広告とは「広く告知するもの」、つまり、多くの人に知ってもらうための手段。
ならば、ターゲットを絞り込んで、ある特定の人たちだけに刺さることを目的とした広告は「狭告」と呼ぶべきかも知れない。
いずれにせよ、そこに届けたい想いや情報があり、それを確実に届ける、つまり「刺さる」ために何をどうするべきか、それが僕らの仕事。

昔から広告はラブレターだと言われていることは何度も触れてきた。
想いを伝える、届ける。
それがちゃんと伝わる、届く。
そのために、広告やデザインは昔から、心理学や行動経済学や統計学なんかを駆使して進化してきた。


星野源さんの「歌を歌うときは」という歌、

歌を歌うときは 背筋を伸ばすのよ
人を殴るときは 素手で殴るのよ
さよならするときは 目を見て言うのよ
好きだと言うときは 笑顔で言うのよ
想い伝えるには 真面目にやるのよ

の歌詞の通り、手段はいつもひとつではない。
手段は目的に合わせて変えるもの。
人を殴るときに笑顔はヤバいし、さよならするときに背筋を伸ばすのもちょっと変。
広くても狭くても、届けたい想い、情報、叶えたい目的を手中に収めるには正しい手段が大切だ。

例えばあなたが、空を飛びたいと思ったとする。
さて、どうする?
必死に腕をバタバタする?
きっとそれじゃあ上手くいかない。

あなたの目的が、自分の体だけで空を飛ぶこと、であれば、どこか高いところから落ちながら飛ぶしかない。
でももしあなたの目的が、空を飛ぶこと、であれば、人や道具やテクノロジーが役に立ってくれる。
本当に叶えたいこと、果たしたい約束、掴みたい夢、守りたい人、そしてそれらを叶えるのがとてつもなく難しいことなら「他力」が欠かせない。
たとえ1%の可能性しかなくても、方法を見つけ出すことが僕らの役割であり、仕事なのだ。


何度も言ってきたことだけど、目的と手段を間違えてる会社やお店や人がすごく多い。
え?結局それがやりたかったの?って拍子抜けするほど、手段がいつの間にか目的にすり替わってる。
そういう会社やお店や人を見るといつも思う。
ああ、本気じゃなかったんだなあ、と。

誤解を恐れずに言えば、本気には「したたかさ」が不可欠だと思う。
したたかさとは、強さのこと。
目的を叶えるためにあらゆる手段を講じて、そして決してあきらめない。

本来の言葉の意味とは違うかも知れないけど、例えば枕営業は一般的には悪いことだとされているが、全部が全部、僕は必ずしもそうとは思わない。
そこまでしてでも叶えたいこと、果たしたい約束、掴みたい夢、守りたい人がいるのなら、「他力」をうまく使い、したたかに生き抜き、決してあきらめない。
むしろ僕は、そういう人のほうが好きだとさえ思う。

きれいごとばかり言って、耳障りのいい言葉を並べて、でも結局言い訳ばかりで行動しない。
そういう人を見ると気分が悪くなる。
善か偽善かなんてどうでもいい。
何があってもあきらめない、したたかに生きる人を応援したい。
映画やドラマでも、そういう役(たいていは悪役)の人に惹かれる。
僕はそういう人が好きだし、主人公を好きになれる映画やドラマはと聞かれても、すぐには思いつかない。


では、どうして手段が目的へと変わってしまうのだろう。
色々な理由や事情があるだろうけど、よくあるのは「楽(らく)」と「楽しい」をはき違えてるパターン。
楽しいほうを選んだつもりでも、それは所詮、楽なほうを選んだだけ。
同じ字でも、意味はまるで違う。
楽はほうばかり選ぶスーパーヒーローを見ても楽しくない。
困難を乗り越えるからこそ、敵わない相手に立ち向かうからこそ、その先に楽しさがある。
楽な道の先に求めている世界はない。
本来の目的をあきらめて手段にしがみつく姿は痛々しい。
それで仕事をした気になってる会社には、たとえそれが大企業であろうとも、きっと未来はない。
僕はそう思う。


あなたが本当に叶えたいことは何ですか?
あなたが果たしたい約束は何ですか?
あなたが掴みたい夢は何ですか?
あなたが守りたい人は誰ですか?
そのために、あなたは何をしますか?
今歩いてるその道の先で、本当に夢は叶いますか?
置き忘れてきてしまった夢を、取りに戻らなくて本当にいいんですか?
美空ひばり



美空ひばりさんの最後のステージとなった小倉公演のCD。
そもそも販売することを目的として録音されたものではないゆえ、音源の質も本人の歌唱も、いわゆる「美空クオリティ」には及ばない。
けれど、ドクターストップを押し切り、文字通り命を懸けて歌い切った最後のステージ、その終盤に収められている「川の流れのように」は、何度聴いても胸の奥の奥にくる。

1989年と言えば、僕は高校2年生かな。
その後の僕の人生は、まさに「でこぼこ道や曲がりくねった道」の連続だったけど、「愛する人をそばに連れて夢探しながら」、ここまで歩いてこれた。


「1滴の雨が木の根を伝ってせせらぎが小川になる。やがて大河になってゆっくりと海にたどり着く。人生っていうのも同じように真っ直ぐだったり、曲がっていたり、流れが速かったり、遅かったり…本当に川の流れのようなものなのよ。でもね、最後はみんな同じ海にそそいでいるのよ。」


僕も少しは大人になったから、今ならわかる。
今こそ、ひばりさんのこの言葉を、強く噛みしめたい。
うるせーよ



僕は基本的に人を信じないし、人に期待しない。
それは反面、人を信じたいからとも言える。
でも色々あって、いつも誤解されて、その結果として、僕は人を信じないほうを選んだ。
期待しても、ろくなことがない。

そんな僕でも、時々出会う。
真っすぐに僕を信じてくれる人。
そういう人を無条件に尊敬してしまう。
だから僕も、信じてみようと試みる。
だけど、だいたいいつも、それはあっけなく終わる。

本気のレベルが合わない人とは、結果的に付き合いは短くなる。
この人は本物かな、と期待はするけど、そんなものはそうそうあるものじゃない。

ある人が言う。
まずはあなたが信じないと、相手にも信じてもらえないよ。
しばらくはそれを信じて、そうやってみた時期もあったけど、でも結局僕はまた、信じないほうを選ぶ。
小中高の友達で、「今でもしょっちゅう会う」っていう友達はひとりもいない。
会えば楽しいし、元気にしてるかなと思うこともあるけど、だからといって会いにいくわけでもない。
友達はたくさんいたし、いじめられたこともないし、学校が嫌いだったわけでもない。
むしろ学校が好きだったし、狂ってしまうほど好きだった女の子もいたし、そんなあの頃の日々は、かけがのない一生の宝物だ。

でもきっと、残りの僕の人生で、あの頃の友達に会う機会は、ものすごく少ないと思う。
それがいいわけでも、それでいいわけでもなく、そうなんだろうなと、ただ思うだけ。
会いたくないわけでも、会えないわけでも決してないけど、実際、たぶんそうなる。

東京のデザイナー仲間には、今でも時々会いにいく。
自分の足りさなを毎回思い知らされるのに、それなのにすごく心地いい。

信頼は結果で勝ち取るしかない。
お互いにプロフェショナルとして、結果を出す。
結果が出れば、次がある。
それがなければ、次はない。
僕を信じてくれたクライアントを笑顔にしたい。
その笑顔をずっと守りたい。
一緒に夢を見たい。
追いかけたい。
そして必ず、夢を叶えた丘で、一緒にその景色を見たい。

おかしな言い方だけど、僕はこのシステムがとても気に入ってる。
シンプルでわかりやすいし、筋が通ってる。
ただ付き合いが長いから、ではなく、ただ近い存在だから、でもなく、プロ対プロでゲームに挑む。
アドレナリンやドーパミンがドバーっと放出される瞬間が好き。
傷つくことも傷つけることも、失うことさえ恐れずに、それをただがむしゃらに掴みにいく。
何度も本気だと言っておいて、結局途中で逃げ出すやつらは大嫌いだけど、ある意味ではもう慣れっこ。
変態だと言われたらその通りだし、子どもっぽいと言われたら、きっとそうなんだろう。


今年も6月になったら、20代で逝ってしまった中学の同級生の墓参りにいく。
僕はなんで、毎年彼女に会いに行くんだろう。
死んだから?
もういないから?
たぶん、彼女との会話に癒されてるからだと思う。
大好きだったあの笑顔で、未だに陸上部のマネージャー気取りで、まだまだだね、っていう声が聞こえてくる。
ちゃんと自分から信じるようにしてる?
何度も言ってるけど、そのうち本当にひとりぼっちになるよ、ってまたきっと言ってくる。

うるせーよ、って言いながら、でも、それがきっと、心地いいんだな。
価値



世界中のあちらこちら、コロナショックの傷跡はまだまだ癒えない。
けど、色々と新たに発見したことも多かったと思う。

ある人は、今回のコロナは、自然界の浄化作用だと言う。
またある人は、いよいよ資本主義経済の崩壊が始まったと言う。
いずれも僕には、まだよくわからない。

わかるのは、世界が闇に落ちた時、僕らの仕事の「価値」もまた、ずずずーっと落ちていくってこと。
軒並みに新規仕事は延期か中止となった。
マスクの高額転売を擁護するつもりは1ミリもないけど、これもまた「価値」なんだなと思う。
高くても、それを求める人がいる。

山の上の自動販売機と、ある意味では同じ理屈だ。
ドローンの登場で運搬は格段に楽になったのに、それでも値段が下がらない。
ということは、山の上まで運ぶのが大変だから、だからジュースが高かったわけじゃないってことだ。
そこにある「価値」はただひとつ。
高くても、それを求める人がいる。


資本主義経済が崩壊したあとは「価値主義」へと変わっていくらしいけど、そもそも「価値」って何だろう、と改めて思う。
あくまでも資本主義経済をベースにして、そのうえで何をもって「価値」と定義づけるのかによっても答えは変わるけど、例えば、クリエイティブディレクターとかは技術よりもアイデアだけど、スタイリストやオペレーターは技術が全て。
でも、時給で計算してしまうと、仕事が遅い人のほうが報酬が高くなってしまう。

僕も最近、イラストを描く作業が増えたけど、僕はイラストがすごく苦手なので、ものすごく時間がかかる。
でも、だからといって、通常の仕事と同じ金額では算出できない。
なぜって、僕はイラストのプロではないから、プロのイラストレーターと同じクオリティの仕事はできっこない。
だから、プロのイラストレーターの10倍の時間がかかっても、10分の1のギャラが妥当だろう。
つまり、ものすごく効率も能率も割も悪い。
結果、つまりは僕のイラストは「価値が低い」ってことだ。

そもそも、コストダウンのために求められてしている作業。
求められてしている作業なら、本来はそこに価値があるはずなのに、でも価値が低い。
つまり、「あれ」が決定的に異なるんだ。

高くても、それを求める人がいる。
安いから、それを求める人がいる。

文字数は同じでも、そこにある「価値」には雲泥の差がある。

東京にいた頃と今とでは、仕事の単価がまるで違う。
それでも、仕事に向かう姿勢は同じ。
僕らの使命は、クライアントさんの仕事や商品の価値を最大限に引き出し、「高くても求められるもの」にしていくことだ。
それができて初めて、僕自身にも価値が生まれる。
場所はもう関係ない。
いや、ちょっとは関係あるんだろうけど、言い訳にしかならない。
自分の夢を叶えるには、誰かの夢を叶えてあげるしかないんだから。



今、外は強めの雨がずっと降ってる。
僕の価値は、ビニール傘か、それとももっと質のいいものか。
ただ雨をしのぐだけなら、そこに違いはあんまりない。
それでも、あえて質のいい傘を選ぶ人に、選んでもらえる傘にならないと。

安いから求められているだけなのだとしたら、とっとと足を洗わないといけない。
前を向きながら、でも同時に、引き際のこともちゃんと考えておこう。
コロナショックの傷に気休めの絆創膏を貼りながら、夜中の作業はまだまだ続く。
椅子に座りすぎて、お尻が割れそう。


道端に生えてる小さな花には、どれくらいの価値があるのかな。
そこに価値を見出す人とそうでない人の差は何なんだろう。
そんなことより、やっぱり、お尻が痛い。
そして、眠い。