したたかさ
広告とは「広く告知するもの」、つまり、多くの人に知ってもらうための手段。
ならば、ターゲットを絞り込んで、ある特定の人たちだけに刺さることを目的とした広告は「狭告」と呼ぶべきかも知れない。
いずれにせよ、そこに届けたい想いや情報があり、それを確実に届ける、つまり「刺さる」ために何をどうするべきか、それが僕らの仕事。
昔から広告はラブレターだと言われていることは何度も触れてきた。
想いを伝える、届ける。
それがちゃんと伝わる、届く。
そのために、広告やデザインは昔から、心理学や行動経済学や統計学なんかを駆使して進化してきた。
星野源さんの「歌を歌うときは」という歌、
歌を歌うときは 背筋を伸ばすのよ
人を殴るときは 素手で殴るのよ
さよならするときは 目を見て言うのよ
好きだと言うときは 笑顔で言うのよ
想い伝えるには 真面目にやるのよ
の歌詞の通り、手段はいつもひとつではない。
手段は目的に合わせて変えるもの。
人を殴るときに笑顔はヤバいし、さよならするときに背筋を伸ばすのもちょっと変。
広くても狭くても、届けたい想い、情報、叶えたい目的を手中に収めるには正しい手段が大切だ。
例えばあなたが、空を飛びたいと思ったとする。
さて、どうする?
必死に腕をバタバタする?
きっとそれじゃあ上手くいかない。
あなたの目的が、自分の体だけで空を飛ぶこと、であれば、どこか高いところから落ちながら飛ぶしかない。
でももしあなたの目的が、空を飛ぶこと、であれば、人や道具やテクノロジーが役に立ってくれる。
本当に叶えたいこと、果たしたい約束、掴みたい夢、守りたい人、そしてそれらを叶えるのがとてつもなく難しいことなら「他力」が欠かせない。
たとえ1%の可能性しかなくても、方法を見つけ出すことが僕らの役割であり、仕事なのだ。
何度も言ってきたことだけど、目的と手段を間違えてる会社やお店や人がすごく多い。
え?結局それがやりたかったの?って拍子抜けするほど、手段がいつの間にか目的にすり替わってる。
そういう会社やお店や人を見るといつも思う。
ああ、本気じゃなかったんだなあ、と。
誤解を恐れずに言えば、本気には「したたかさ」が不可欠だと思う。
したたかさとは、強さのこと。
目的を叶えるためにあらゆる手段を講じて、そして決してあきらめない。
本来の言葉の意味とは違うかも知れないけど、例えば枕営業は一般的には悪いことだとされているが、全部が全部、僕は必ずしもそうとは思わない。
そこまでしてでも叶えたいこと、果たしたい約束、掴みたい夢、守りたい人がいるのなら、「他力」をうまく使い、したたかに生き抜き、決してあきらめない。
むしろ僕は、そういう人のほうが好きだとさえ思う。
きれいごとばかり言って、耳障りのいい言葉を並べて、でも結局言い訳ばかりで行動しない。
そういう人を見ると気分が悪くなる。
善か偽善かなんてどうでもいい。
何があってもあきらめない、したたかに生きる人を応援したい。
映画やドラマでも、そういう役(たいていは悪役)の人に惹かれる。
僕はそういう人が好きだし、主人公を好きになれる映画やドラマはと聞かれても、すぐには思いつかない。
では、どうして手段が目的へと変わってしまうのだろう。
色々な理由や事情があるだろうけど、よくあるのは「楽(らく)」と「楽しい」をはき違えてるパターン。
楽しいほうを選んだつもりでも、それは所詮、楽なほうを選んだだけ。
同じ字でも、意味はまるで違う。
楽はほうばかり選ぶスーパーヒーローを見ても楽しくない。
困難を乗り越えるからこそ、敵わない相手に立ち向かうからこそ、その先に楽しさがある。
楽な道の先に求めている世界はない。
本来の目的をあきらめて手段にしがみつく姿は痛々しい。
それで仕事をした気になってる会社には、たとえそれが大企業であろうとも、きっと未来はない。
僕はそう思う。
あなたが本当に叶えたいことは何ですか?
あなたが果たしたい約束は何ですか?
あなたが掴みたい夢は何ですか?
あなたが守りたい人は誰ですか?
そのために、あなたは何をしますか?
今歩いてるその道の先で、本当に夢は叶いますか?
置き忘れてきてしまった夢を、取りに戻らなくて本当にいいんですか?
ならば、ターゲットを絞り込んで、ある特定の人たちだけに刺さることを目的とした広告は「狭告」と呼ぶべきかも知れない。
いずれにせよ、そこに届けたい想いや情報があり、それを確実に届ける、つまり「刺さる」ために何をどうするべきか、それが僕らの仕事。
昔から広告はラブレターだと言われていることは何度も触れてきた。
想いを伝える、届ける。
それがちゃんと伝わる、届く。
そのために、広告やデザインは昔から、心理学や行動経済学や統計学なんかを駆使して進化してきた。
星野源さんの「歌を歌うときは」という歌、
歌を歌うときは 背筋を伸ばすのよ
人を殴るときは 素手で殴るのよ
さよならするときは 目を見て言うのよ
好きだと言うときは 笑顔で言うのよ
想い伝えるには 真面目にやるのよ
の歌詞の通り、手段はいつもひとつではない。
手段は目的に合わせて変えるもの。
人を殴るときに笑顔はヤバいし、さよならするときに背筋を伸ばすのもちょっと変。
広くても狭くても、届けたい想い、情報、叶えたい目的を手中に収めるには正しい手段が大切だ。
例えばあなたが、空を飛びたいと思ったとする。
さて、どうする?
必死に腕をバタバタする?
きっとそれじゃあ上手くいかない。
あなたの目的が、自分の体だけで空を飛ぶこと、であれば、どこか高いところから落ちながら飛ぶしかない。
でももしあなたの目的が、空を飛ぶこと、であれば、人や道具やテクノロジーが役に立ってくれる。
本当に叶えたいこと、果たしたい約束、掴みたい夢、守りたい人、そしてそれらを叶えるのがとてつもなく難しいことなら「他力」が欠かせない。
たとえ1%の可能性しかなくても、方法を見つけ出すことが僕らの役割であり、仕事なのだ。
何度も言ってきたことだけど、目的と手段を間違えてる会社やお店や人がすごく多い。
え?結局それがやりたかったの?って拍子抜けするほど、手段がいつの間にか目的にすり替わってる。
そういう会社やお店や人を見るといつも思う。
ああ、本気じゃなかったんだなあ、と。
誤解を恐れずに言えば、本気には「したたかさ」が不可欠だと思う。
したたかさとは、強さのこと。
目的を叶えるためにあらゆる手段を講じて、そして決してあきらめない。
本来の言葉の意味とは違うかも知れないけど、例えば枕営業は一般的には悪いことだとされているが、全部が全部、僕は必ずしもそうとは思わない。
そこまでしてでも叶えたいこと、果たしたい約束、掴みたい夢、守りたい人がいるのなら、「他力」をうまく使い、したたかに生き抜き、決してあきらめない。
むしろ僕は、そういう人のほうが好きだとさえ思う。
きれいごとばかり言って、耳障りのいい言葉を並べて、でも結局言い訳ばかりで行動しない。
そういう人を見ると気分が悪くなる。
善か偽善かなんてどうでもいい。
何があってもあきらめない、したたかに生きる人を応援したい。
映画やドラマでも、そういう役(たいていは悪役)の人に惹かれる。
僕はそういう人が好きだし、主人公を好きになれる映画やドラマはと聞かれても、すぐには思いつかない。
では、どうして手段が目的へと変わってしまうのだろう。
色々な理由や事情があるだろうけど、よくあるのは「楽(らく)」と「楽しい」をはき違えてるパターン。
楽しいほうを選んだつもりでも、それは所詮、楽なほうを選んだだけ。
同じ字でも、意味はまるで違う。
楽はほうばかり選ぶスーパーヒーローを見ても楽しくない。
困難を乗り越えるからこそ、敵わない相手に立ち向かうからこそ、その先に楽しさがある。
楽な道の先に求めている世界はない。
本来の目的をあきらめて手段にしがみつく姿は痛々しい。
それで仕事をした気になってる会社には、たとえそれが大企業であろうとも、きっと未来はない。
僕はそう思う。
あなたが本当に叶えたいことは何ですか?
あなたが果たしたい約束は何ですか?
あなたが掴みたい夢は何ですか?
あなたが守りたい人は誰ですか?
そのために、あなたは何をしますか?
今歩いてるその道の先で、本当に夢は叶いますか?
置き忘れてきてしまった夢を、取りに戻らなくて本当にいいんですか?
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