非日常



デザイナー、特にクリエイティブ・ディレクター的な役割の人は、常にアタマの中で、日常と非日常、そしてアートとビジネスを縦横無尽に自由に行き来できるスキルが必要なんだと思う。

それは何も境界線を曖昧にしろということではなく、日常の中にも美を見出し、非日常を言語化する必要があるからで、どっちかに偏ったアタマでは、優れたアイデアは見つけられない。

「まとも」な人が考えることは、決して「まとも」の域を超えられない。
それが悪いということではなく、様々な問題を解決し、色々な物事を時代に合わせてアップデートしていくためのヒントや答えは、いつだって「まとも」の外側にあるから。

そのためには、本来、誰もが平等に持っているはずの本能や欲望の声をちゃんと聞けるように、心を真っ白にして開いておくこと。
くだらない偏見やつまらないプライドで曇ってしまった窓には、ぼやけた自分の姿しかうつらない。
ノイズだらけのアタマや目では、その向こうにある景色など、決して見れるはずもない。


そういう僕も、日々の業務に追われていると、どうしてもビジネスと日常に偏っていってしまって、アタマがかたくなってしまう。
イライラしたり、必要以上に頑固になったり、体調を崩したり、まあ、ろくなことがない。

日常の中に美を見出せる人は、非日常へも簡単にトリップできる人。
その全部がまるごと、その人の日常だ。


どんな方法でも構わない。
どこへ行くの?
ちょっとそこまで。
ぐらいの感覚で、怖がらずに、あなたが思う非日常へ、トリップしよう。

でも決して、帰り道を忘れないようにね。
三宅一生



三宅一生さんの作品に詳しいわけでもなく、そもそも服飾にそれほどの興味も持っていない僕なんぞに語れる何もありませんが、ずっと昔から、三宅さんの活動や言動から勝手に色々と刺激を受けてきました。

今でも三宅さんが特集されている記事を見かけると必ず目を通します。
でもやっぱり、その作品や服飾のことはよくわからないままなのですが、わからないままなりに、文章を読み、作品の写真を見ていると、不思議といつも、なぜか僕の中に情熱の火が灯り、ほぼ無意識に、そしてものすごく自分勝手に、創造の種を受け取ります。

いつかお会いできればとずっと思ってきましたが、もしもお会いできたとしても、僕は服を語れません。
遠くから、どこまでも自分勝手に刺激を受けて、またひとつずつ、創造の種を受け取るくらいがちょうどいい、ですね。