グレーな世界
車も壁も棚も飾りも文房具も、僕のまわりはグレー色だらけ。
僕がねずみ年生まれだからってわけじゃなく、単純に僕の一番好きな色だからなんだけど、グレーは「デザイン」ってものを一番よく表現している色だと思う。

世の中は、白が5%、黒が5%、残りの90%はグレーで出来ている、って誰かが言ってたけど、本当にそうだなと感じる。
だから、何かと白黒つけたがる人や、生きづらさを感じている人の大半は、このグレーに悩まされるんだろう。

政治の世界を見ればよくわかる。
どっちにも解釈できるように、ほとんどのことがグレーに作られている。
ピンチの時に、うまく逃げられるように。
まあ、これは悪い例だけど。


以前、代替案があるかないか、がアートとデザインの違いだと書いた。
デザインには常に代替案がある。
A案がダメならB案。
B案もダメならC案やD案やE案を生み出す。
だからこそ、グレーでないと成り立たない。

そう言うと、なんていいかげんでテキトーで曖昧なんだ、と思われそうだけど、僕はグレーな状態が心地いい。
おかげで、あらゆる意味で守備範囲はかなり広いほうだと思う。
それに、「テキトー」を辞書で調べると、「ある性質・状態・要求などに、ちょうどよく合うこと。ふさわしいこと。」とある。
だから別に悪いことじゃない。
グレーを「暗い・寂しい」と感じる人もたくさんいるけど、グレーは「静か」なところが、ちょうどいいんだと思う。
僕がグレーのニットを着ている女性に無条件で好感を持つのだって、たぶんそういう理由、なのかな?
僕が車を選ぶ時に、グレーかシルバーを最優先するのは、きっとそういう理由だと思う。
つやのないマットなグレーで、主役じゃなくても本当に実力や評価が高い人の事を指す「いぶし銀」って言葉もある。
なんかそういうの、いいと思う。


デザインを学ぶことは、グレーを学ぶことでもある。
それこそテキトーに、「グレデミー(グレー+アカデミー)」とでも名付けようか。
グレデミーで学べることは、もしかしたら白や黒よりもきっと真理で、生きづらい世の中を軽やかに生きていくための万能ツールだ。

グレーな世界を、どう走り、どう泳ぎ、どう飛ぶか。
全ての人がデザインを学ぶべき理由は、そんなところにもある。
モスのモッさん



僕は今、僕と同い年のモスのモッさんが3月いっぱいで引退のニュースになんだかよくわからない衝撃を受けてる。

https://bit.ly/3BoFwZh
クリエイティブな生き方
今あるもので満足しなさい?
今いる場所で咲きなさい?
そうできれば良かったけど、僕のような社会不適合者にはちょっとハードルが高い。

山があるなら超えていこう。
未経験のことだからこそ、まずは試してみよう。
こっちのほうが僕にはずっと楽。

こうでなければならない。
こうするのが一般常識だ。
そんな暮らしは、水槽の中みたいで息がつまる。


「欲しいものがわからないと、本当には欲しくないものに包囲されて暮らすことになる。」
(ファイト・クラブ)

本当に欲しいものは何なのか、本当に必要な人は誰なのか、本当に大切な真実はどこにあるのか、クリエイティブの視点を持っていない人にとっては、それが見えずらい世の中なのかもしれない。

クリエイターじゃなくても、クリエイティブな生き方はできるはずだ。
ミスマッチ



先日撮った、小さな漁港に放置されていた、はたらく車。
この当時の日産車は本当にかっこいい。
当時はさぞ活躍したんだろうけど、なんでこのままここに放置されることになったんだろう。

どんなに高級な車でも、燃料が入ってなければただの箱か飾り物。
車は自分で燃料を入れることができない。
だからどんなに優秀でも、燃料を入れてくれる人が不可欠なんだ。

悪いのは、役立たずになって放置された車ではない。
本来の役目は終わったとしても、別の役割を与えてもやらず、そのまま放置して知らん顔してる人間のほう。
アイデアとデザイン、そしてそこに愛があれば、問題は必ず解決できる。


そういえば先日の打ち合わせで、「ミスマッチ」の話になった。
三重に戻ってきて一番驚いたのは、それまで知らなかった良い素材なモノの多さと、それを台無しにしているデザインとのミスマッチの多さ。
カッコ良さの基準は人それぞれ違うにせよ、せっかくの良い素材を、なんでわざわざカッコ悪くするのかと憤りを感じることが多かった。
ミスマッチなモノやコトを見るたびに、欠けているのはやっぱり、アイデアとデザインと愛なんだと感じる。

だけど、同じミスマッチでも、人同士や組織間のミスマッチはちょっと手強い。
ミスマッチによって苦しんでる人がたくさんいる。
お互いの努力や協力によってどうにかなる場合はそれでもいいけど、求めてるモノやコトが違うのに、泣いたり苦しんだりしながら、それでも我慢して続けなきゃいけない理由って何だろうか。
何のために、誰のために、それでもそれを続けなきゃいけないんだろうか。

アメリカの第2代大統領のジョン・アダムスは、「忍耐と辛抱強さがあれば、どんな困難も障害も乗り越えられる」と言ったけど、この言葉の真の狙いはバレバレだ。
それよりも、スティーブ・ジョブスの「時間は限られているのだから、他人の人生を生きて自分の時間を無駄に過ごしてはいけない」という言葉のほうがしっくりくる。

時を重ねてベストマッチになっていく場合もある。
でもそうじゃないなら、無理して続けなくてもいい。
別の道がきっとあるはずだから。

モノもコトも人も、ミスマッチのまんまじゃ誰もハッピーになれない。
モノもコトも人も、勇気やタイミング、アイデアやデザイン、そして愛が大切なんだ。

その車も、その素材も、その工芸も、その土地も、その人も、きっとハッピーになるために生まれてきたはず。
目の前の問題が、越えるべきハードルなのか避けるべき壁なのか、正しい判断が必要。
最後まで諦めずにそれを見つけ出すことが、僕らデザイナーの仕事なんだと思う。


あと2か月で僕も50歳。
子どもの頃なら格好の遊具となっただろうこの放置された車に手をかけて、がんばったのになあ、もう誰も気にとめてもくれないんだなあ、そんな風に声をかけて、こんなことに感傷的になってしまうほど、僕も年を取ったんだなあとしみじみ思った。

とある本の「50歳」に関するページで、
「どれだけ偉ぶっていても、愛される人にはかなわない。」
という、トヨタの広告のコピーが紹介されていた。

40代も色々あった。
あっという間だったと思う。
色んな人を愛したし、色んな人に愛された。
色んな人を傷つけたし、色んな人に傷つけられた。

ベストマッチだらけだったと言いたいけど、現実はそう上手くはいかない。
それぞれの人に、それぞれなりの愛や正義があって、でもそれが必ずマッチするとは限らない。
どれだけ愛しても届かないことだってあるし、どれだけ愛されたとしても、偉ぶってる人に勝てないシーンもある。

ただ、本来の役目は終わったとしても、別の役割を与えてもやらずそのまま放置して知らん顔してるのは、あまりにも愛がない。
偉ぶれるほど偉くもないのなら、せめて次のベストマッチを考えてあげよう。
放置された車を愛してくれる誰かがきっとどこかにいる。
それがアイデアであり、デザインのはず。


デザイナーとしての僕の役目が終わるのはいつだろう。
もしもそのまま放置されるとしたら、自分で終わってることに気づいていないからかも知れない。
そうならないためにも、ミスマッチを我慢せず、別のベストマッチを探すのもひとつの手だ。
心から愛されたと言える50代を過ごすために。
波の音



シンドイ時は、海へ。
どっちかと言うと山派なんですが、徒歩圏内に山がないので残念。

子どもの頃は、松阪の実家の裏山が遊び場だったな。
木や葉っぱや昆虫や石とかの見事な模様を夢中になって見てた。
目を閉じて耳を澄ますと、色んな音が聴こえてきた。
自然のオーケストラ。
山登りやスキーとかにはあまり興味はないけど、小さな発見のための山遊びは今でもしたいな。


ただ波の音を聴く。
ただそれだけの時間。
贅沢な時間とかリフレッシュとか、そういうんじゃない。

ただひたすらに、ただ静かに、波の音を聴く。

ただ、それだけ。
激強打破



さあ、今日も愛車とともに、「激強打破」2本イッキ飲みでレッツゴーです。
アパート





やばい、かわいい。
このサインだけで、このアパートに住みたくなる。



先日、NHKのラジオ番組に出演させていただいた際の記念撮影。
担当アナウンサーの高橋美帆さんとは初対面でしたが、気さくでありながら気品があり、優しい声のとても素敵な女性でした。

こういう時にいつも感じますが、「声」の威力や魔法ってやっぱりあると思います。
僕は昔から、声だけでもその人のことが好きになれるほどの声フェチなので、特にそこに敏感なのかも知れませんが、心にすうーっと染みてくる声というのがあります。

昔から芝居の世界では、良い役者の素養として、1番大事なのは「声」で、2番目に「顔」、3番目が「姿」と言われているそうです。

演劇評論家の小田島氏も、「言葉は耳から頭へいくが、声は耳から胸にくる」と言っているし、アメリカの天文学者、ボーエルも、「声は第二の顔である」と言っている。

声に自信のない僕なんかは、なんだかそう考えるとちょっとへこんでしまいますが、確かに声の印象ってのは強いし、声だけで心をつかめる素敵な声の持ち主がうらやましく思います。

たぶん、普段から話す言葉や口調やトーンやボリュームや姿勢や行動によっても、声は良くなったり悪くなったりするんだろうなと思うし、姿勢を正して、良い言葉をたくさん話したほうが、声にも艶が出てくるようにも感じる。

ただ、声の出せない方達と比べると、僕なんかはコミュニケーションの際に「声」や「話す」ってことに頼りすぎてしまっている点は反省が必要で、身振り手振り、服装、表情、仕草、そういうことで伝える、読み取る、そういうスキルをもっと磨かないといけないなと思う。


収録されたものを聞き返してみて、僕のまあなんともしわがれた声よ、と落胆もしてしまいますが、この声は僕だけのもので、唯一のもの。
いつ声が出なくなるかも知れませんが、それまではこの声を大事にしていきたいと思います。