さよなら、2021年。
大好きな人には、遠慮せず、臆せず、わきまえずに、素直に大好きと言おう。
好きじゃない人や仕事からは、不安がらず、恐れず、悪びれず、すっぱりと距離を置こう。
楽しいと思えない仕事や心が動かない案件は、それを楽しいと思える誰かに代わってもらおう。
人が生まれてきたことに意味などなくて、生きていくうえでの意味を欲しがってるだけ。
だから最初から決まっていたと思わずに、自分で好きなように意味を作っていこう。
僕が生まれたのは君に出会うため、それでもいい。
私はここへ来るべくして来たのだ、それでもいい。
曲は勝手に生まれて、どこからともなく流れてくるから、あとは自分で自由に詩をつければ、それでいいんだと思う。

なんとなくそんなことを思った、2021年の年の瀬。
2021年も本当に色んなことがあって、新たな発見、ずっと思ってきたことの確証、良き出会いと別れ、ここで終わること、ここから始まること、時々心が追いつかなくなるほど、なんだかんだと目まぐるしい1年でした。

今年も本当にありがとうございました。
僕が大好きな人達にとって、今までで一番最高だったぜ!って思える2022年でありますように。

では、よいお年を!
アシスタントさん



独立して22年目。
毎日の僕のスケジュール管理、販売、接客、商品開発、企画立案、デザインのオペレーター業務などなど、破滅的に記憶力の乏しい僕をサポートするために常に同行し、募集要項に書いてなかったことばっかりやらされてるのに、愚痴を言うどころか、毎日楽しいです!っていつも笑顔でこたえてくれる、東京時代から数えて三代目となる、今の僕のアシスタントさん。

当たり前だけど、感謝しかない。
環境としての親



前回に続き、子どもというキーワードで思うことは他にもあります。
僕はただのデザイナーであって、子どもの専門化でもなければ、何か根拠があるわけでもないし、それぞれの家庭にはそれぞれの事情があることも承知しながら、あくまでも個人的な考察として書きます。


例えば、親からの愛情の貯金があまりにも不足したまま大人になってしまった人が、その不足分を恋愛や仕事などで必死に埋めようとするけれど、そもそも口座が違うのでそこに求めていた愛情は貯金されず、不足は不足のままいつまでも埋められずに病んでいくケースが僕のまわりでもわりとあるなと。

もちろん、親は親なりに一生懸命に愛情を注いできたのかも知れません。
でも問題は、子どもが求めているものと違うものをいくら一生懸命に注いでも満たされることは決してないということ。

確かに、心の健康は「環境」によるところが大きいのかも知れません。
ただ問題は、親である自分自身を「環境」に含めていない場合が結構あること。

例えば、映画とかで、母親が愛する子どものために環境を変えなきゃと言ってダメ夫と離婚して見知らぬ土地へ引っ越して再出発、という場合に、もしも問題の「本質」が母親自身にもあった場合は、どんなに環境を変えても、どこまで遠くへ行ったとしても解決はしません。
この場合の問題の本質とは、母親がアル中だとか、そういう意味でのダメ親ってことじゃなくて、子どもにとっては、ママと一緒にいる時間がもっと欲しいとか、話をただ聞いてほしいだけ、だったりします。

ですが、子どものために一生懸命に働けば、必然的に子どもと一緒にいれる時間が少なくなります。
このジレンマを軽率に語ることはできませんが、果たして子どもがそれをちゃんと理解できるかどうか。


デザインは「装飾」ではなく、問題を正しく見つけ出し、それを見事に解決するためのツールです。
ビジネスの世界でも、この「環境」の設定がズレているケースをよく見聞きします。

例えば、社長が社長自身を「環境」に含めていない場合、人を変えようが設備を変えようが場所を変えようが、根本にある問題は変わりません。
もちろん、社長の会社ですから社長の自由なんだけど、問題の本質が「そこ」にあることを確信しながら、小手先の解決にいくら取り組んだとて、劇的な変化はなかなか起こせません。

ましてやそれが家庭のこととなると、ロジカルに論理的に建設的にとはなかなかいかないのが普通。
子どもが心に何を抱えているのか、それを子ども自身が完璧に説明できるわけがありません。

先述のケースでは、その子どもが親のことを心底大好きな場合が多いのも特徴です。
そして、勘の鋭い子は大好きな親を困らせたくないと自身を律しようともがきますが、子どもですから、うまくいかずに心と体のバランスを崩したりします。
そんな時に、この子には学校が合わないとか、友達づきあいが苦手だからとか、常に問題を親自身から離して考える人が多いことが気になります。
ましてや、この子は我慢強くて理解が早くて手のかからない子だから助かる、なんて悠長に言ってていいものなのかなと。

頭ではわかっているつもりでも、自身も「環境」の一部であることを正しく認識できている人は意外と少なく、だからこそ、自分から見えている景色ではなく、相手から見えている景色をちゃんと想像できる想像力が必要不可欠。
相手の視点の先には自分がいます。
それがちゃんと想像できれば、「環境を変える」ってことに自分自身も含まれていることがわかるはずです。


自分は誰よりも頑張っている。
そのことは決して否定しません。
でもやっぱり、相手が求めているものと違うものをいくら一生懸命に注いでも、満たされることは決してないのです。

子どもの目には、自分はどう写っているでしょうか。
「機嫌がいい」と「優しい」をはき違えてしまっていないでしょうか。
豊かな想像力がないと、事実ばかりに目を奪われて、真実が見えなくなってしまう。
それはとても怖いことだと思います。

仕方なく不足のままで大人になってしまった人にとって大切なのは、何が問題の本質で、どうすれば正しい方法で「他のもの」で不足を埋められるかを一緒にデザインしてくれる人に出逢えるかどうかだと思います。

もっと複雑で、決して安易に語れることじゃない。
それも重々承知です。
ただ、間違いなく親から子への「連鎖」は存在します。
どこかの段階で誰かが断ち切るまで。


長々と偉そうに書きましたが、あくまでもひとつの意見。
皆さんの中で、考えるきっかけのひとつになれば幸いです。
お祭り



お叱りを受ける覚悟で書きますが、僕はこれまで、「文化」が大事とあちこちで何度も言ってきました。
少々大げさかも知れませんが、文化は私たちの暮らしや未来にとって、大切なものです。

ですが一方で、文化とは程遠い、文化のふりした悪しき風習もあるように思います。
それがよく表れているのが、文化の象徴のひとつである「お祭り」ではないかと。

個人的な経験則ですが、良い祭りとダメなお祭りを何が分けるのかは、子どもたちの扱い方を見ればわかる気がします。
だけど、子どもたちを大切にしているお祭りを、僕はあまり見たことがありません。


例えば、僕が育った地域には、家を建てた時やお祭りの際に、高いところから餅やお菓子をまく「もちまき」という風習があります。
もとは災いを払うために行われた散餅の儀が由来で、山口県では、「餅ひろい世界選手権」まであるそうな。
三重県では、家を建てた際に「もちまき」をするところはかなり減ったと思うけど、お祭りでは今でも時々見かけます。

一見すると良い風習に見えますが、実際は、まるで何かに憑りつかれたかのように、飛んでくる餅に必死で飛びついて、恐ろしい形相で大人たちが餅を奪い合う凄惨な光景があって、周りが見えなくなっている大人たちが暴走し、餅ではなくお菓子をキャッチするために前のほうに寄ってきている子どもたちをなぎ倒して餅に飛びつくバカ野郎が必ずひとりやふたりはいたりします。
泣き出す子どもや、ケガをする子ども、子どもの代わりに必死でお菓子に飛びついてあげているお父さんたち、etc。

子どもたちが安心してこの文化を楽しめるように、専用ゾーンを設けている「もちまき」はほとんどないんじゃないでしょうか。
それに、この激しさも文化のひとつで、これも良き思い出となるのだ、これこそ祭りの醍醐味だ、そうやって大人の階段をのぼるのじゃー、などとほざく大人には呆れてものが言えません。

例えば、かの有名な「ねぶた祭」などはどうでしょう。
子どもたち専用の、会場で一番ねぶたがよく見える一番の特等席を用意してあげているのでしょうか。
僕には、一番前を大人たちが独占しているイメージしかありませんが、実際はどうなんでしょう。

花火大会だってそうです。
議員か誰か知らないけど、そういう大人が特等席にいたって何の意味もありません。
その場所こそ、子どもたちに譲ってあげるべきではないでしょうか。

祭りの会場には様々な出店があって、かき氷やポテトなどはどこも行列ができています。
祭りの楽しさを演出する大切な風習ですが、これも、子どもたちには優先権があってしかりだと思います。
だけど、子どもしか興味のない出店以外は、どこのお祭りも「平等」に大人も子どもも同じ列に並びます。
それは良いことだという意見もわかりますが、見直してもいい常識ではないかとさえ感じます。

もちろん、お祭りが大好きな子ども達もたくさんいるし、大人達が楽しんでいるのを見て、いつか自分も大人になったら、あんな風にお祭りを盛り上げるんだと、それを楽しみに大人になっていく子ども達がいることも知っています。
ですが、そうやってうまくいっているお祭りが全国にいくつあるでしょうか。
多くの子ども達にとってのお祭りの楽しみは、出店、友達、恋人、賑やかな雰囲気、とかが多いのではないかな。
そのお祭りにはどんな歴史や意味があるのか、それを楽しみながら知ってほしいと思うし、そうでなければもったいないと感じます。

文化とは「つないでいくもの」で、大人優先で楽しめるように設計されたお祭りは、いずれ消えてなくなると思う。
もちろん、子どもたちが十分に楽しめる工夫があるお祭りもあるはずだと思うし、そういうお祭りがもっともっと増えてほしい。

本来伝えたい文化の良さを伝えられず、本来味わってほしい文化の楽しさを味あわせてあげられなくて、どうやって文化をつないでいけるというのか。
だれがそんなものをつないでいきたいと思うのか。

極論かも知れないけど、子どもたちが一番楽しめる工夫がしてある祭りでなければ、それをする意味などないと、僕は思う。
長女の11歳の誕生日



12月10日は長女の11歳の誕生日でした。
妹(7歳)から、大好きが溢れてる手紙とプレゼントをもらって本気で喜び抱き合う11歳と7歳のやりとりを見ていると、姉妹ってなんだかいいなあって思います。


伝える言葉は何年経っても同じ言葉。
生まれてきてくれて、本当にありがとう。
僕の人生に、こんなにも素敵な宝物を、ありがとう。
笑った顔



We know from daily life that we exist for other people first of all, for whose smiles and well-being our own happiness depends.
(ほかの誰かの元気な笑顔のために自分が生きていることを、私たちは知っている。それは自分の幸福を支えてくれているんだ)
By アルベルト・アインシュタイン


家族、アシスタント、友達、クライアント等々、1日1回は必ず誰かを大笑いさせること。
たぶん僕の唯一のルーティーン。

中学生の頃、笑った顔が気持ち悪いと冗談交じりに言われてから、写真ではかたくなに笑わないでいた。
そして大人になって、あなたの笑った顔が好き、と言ってくれた女性と結婚した。

笑う門に、いくら待っても福が来なくたってかまわない。
とびっきりの気持ち悪い笑顔で、こっちから迎えに行ってやる。

ご迷惑でしょうが、これからも、くだらないことばっかり言ってるふざけたオヤジで生きていきます!