環境としての親



前回に続き、子どもというキーワードで思うことは他にもあります。
僕はただのデザイナーであって、子どもの専門化でもなければ、何か根拠があるわけでもないし、それぞれの家庭にはそれぞれの事情があることも承知しながら、あくまでも個人的な考察として書きます。


例えば、親からの愛情の貯金があまりにも不足したまま大人になってしまった人が、その不足分を恋愛や仕事などで必死に埋めようとするけれど、そもそも口座が違うのでそこに求めていた愛情は貯金されず、不足は不足のままいつまでも埋められずに病んでいくケースが僕のまわりでもわりとあるなと。

もちろん、親は親なりに一生懸命に愛情を注いできたのかも知れません。
でも問題は、子どもが求めているものと違うものをいくら一生懸命に注いでも満たされることは決してないということ。

確かに、心の健康は「環境」によるところが大きいのかも知れません。
ただ問題は、親である自分自身を「環境」に含めていない場合が結構あること。

例えば、映画とかで、母親が愛する子どものために環境を変えなきゃと言ってダメ夫と離婚して見知らぬ土地へ引っ越して再出発、という場合に、もしも問題の「本質」が母親自身にもあった場合は、どんなに環境を変えても、どこまで遠くへ行ったとしても解決はしません。
この場合の問題の本質とは、母親がアル中だとか、そういう意味でのダメ親ってことじゃなくて、子どもにとっては、ママと一緒にいる時間がもっと欲しいとか、話をただ聞いてほしいだけ、だったりします。

ですが、子どものために一生懸命に働けば、必然的に子どもと一緒にいれる時間が少なくなります。
このジレンマを軽率に語ることはできませんが、果たして子どもがそれをちゃんと理解できるかどうか。


デザインは「装飾」ではなく、問題を正しく見つけ出し、それを見事に解決するためのツールです。
ビジネスの世界でも、この「環境」の設定がズレているケースをよく見聞きします。

例えば、社長が社長自身を「環境」に含めていない場合、人を変えようが設備を変えようが場所を変えようが、根本にある問題は変わりません。
もちろん、社長の会社ですから社長の自由なんだけど、問題の本質が「そこ」にあることを確信しながら、小手先の解決にいくら取り組んだとて、劇的な変化はなかなか起こせません。

ましてやそれが家庭のこととなると、ロジカルに論理的に建設的にとはなかなかいかないのが普通。
子どもが心に何を抱えているのか、それを子ども自身が完璧に説明できるわけがありません。

先述のケースでは、その子どもが親のことを心底大好きな場合が多いのも特徴です。
そして、勘の鋭い子は大好きな親を困らせたくないと自身を律しようともがきますが、子どもですから、うまくいかずに心と体のバランスを崩したりします。
そんな時に、この子には学校が合わないとか、友達づきあいが苦手だからとか、常に問題を親自身から離して考える人が多いことが気になります。
ましてや、この子は我慢強くて理解が早くて手のかからない子だから助かる、なんて悠長に言ってていいものなのかなと。

頭ではわかっているつもりでも、自身も「環境」の一部であることを正しく認識できている人は意外と少なく、だからこそ、自分から見えている景色ではなく、相手から見えている景色をちゃんと想像できる想像力が必要不可欠。
相手の視点の先には自分がいます。
それがちゃんと想像できれば、「環境を変える」ってことに自分自身も含まれていることがわかるはずです。


自分は誰よりも頑張っている。
そのことは決して否定しません。
でもやっぱり、相手が求めているものと違うものをいくら一生懸命に注いでも、満たされることは決してないのです。

子どもの目には、自分はどう写っているでしょうか。
「機嫌がいい」と「優しい」をはき違えてしまっていないでしょうか。
豊かな想像力がないと、事実ばかりに目を奪われて、真実が見えなくなってしまう。
それはとても怖いことだと思います。

仕方なく不足のままで大人になってしまった人にとって大切なのは、何が問題の本質で、どうすれば正しい方法で「他のもの」で不足を埋められるかを一緒にデザインしてくれる人に出逢えるかどうかだと思います。

もっと複雑で、決して安易に語れることじゃない。
それも重々承知です。
ただ、間違いなく親から子への「連鎖」は存在します。
どこかの段階で誰かが断ち切るまで。


長々と偉そうに書きましたが、あくまでもひとつの意見。
皆さんの中で、考えるきっかけのひとつになれば幸いです。
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