今日が誕生日の人へ



親に捨てられ、施設で育った小学生の女の子がいて、彼女はいつも、自分の誕生日が大嫌いだと言っていました。
その目は怒りに満ちていて、自分で選んだわけじゃない理不尽な境遇に対する、まだうまく言語化できない諦めや恨みを、まるで噛み殺しているかのようでした。
でも、ギューって抱きしめてあげると、安心しきった表情で、照れくさそうに笑います。

生みの親は健在とのことですが、再度彼女を引き取る意思はないそうです。
そこには僕の知り得ない様々な事情があるのでしょう。
それでも、なぜ?と問うてしまう自分がいます。
自分の無力さに打ちひしがれるほどのキレイな心は持っていませんが、向ける先のないやるせなさをずっと拭い去れずにいます。

彼女に出会って以降、誰にとっても誕生日はちゃんと祝ってもらうべきものだと改めて感じて、身近な人や大事な人へは、「おめでとう」と声をかけたり、メッセージを送ったり、誕生日プレゼントを渡すように心がけてきました。
でも、相手によっては迷惑がられることもあるだろうし、勘違いされることもあるから、なかなか難しいです。



連日、「命」に関する悲しいニュースが絶えません。
とんでもなく自分勝手な理由を聞くたびに、堪えがたい怒りが湧いてきます。
2人の娘を持つ父親として、その被害者が自分の娘だったらと思うと、正気を保っていられるか自信がない。
僕にとっては、彼女たちがいない人生など想像すらできません。

犯人には重い刑罰が科せられますが、身勝手な理由を淡々と言ってのける本人にとっては罰にはなりえず、むしろ目的をきちんと果たした達成感すら感じているのでしょう。
本当の意味で苦しめられるのは被害者側であり、犯人の家族もまた、同じように苦しみ続けることになります。



悪い奴らもいるし、社会はどこまでも理不尽です。
偶然そうなったわけでも、最初からそうだったわけでもなく、自分たちがそういう社会を作ってきてしまったのです。
かの犯人たちと自分は違うと言い切れる根拠も、あるといえばあるし、ないといえばないのかもしれません。

それでも、この世から犯罪がなくなることはないにしても、負の連鎖を変えようと行動することは誰にでもできるはず。
少なくとも、自分の誕生日を大嫌いにならずに済む社会は、きっと作れます。


だから、あなたの身近な人や大事な人の誕生日には、あなたの「想い」を贈りましょう。
モノじゃなくてもいいから、かっこよくなくてもいいから、もしも遠く離れているのなら、心の中だけでもいいから。

心に少し余裕のある人は、見知らぬ誰かにもそうしましょう。
誰もが大切なことに気づける、そんなハッピーな連鎖を生み出せるかもしれません。
 
 
 
誕生日、おめでとう。
 
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