年男
ねずみは「寝ず身」と言われ、ねずみ年の人は寝る間も惜しんでコツコツ働き続けるんだそうです。
どうりで(笑)。

でも、なんで大金持ちになれないのでしょう。
またあの人に「仕事をちゃんと選ばないからでしょ!」って言われそう。

でも、20年前に、美大も芸大も出てない僕が、ましてやデザイン業界での経験もないのにデザイン事務所を立ち上げて、それでも仕事をいただけたあの頃の喜びがこびり付いてて、たとえ新人デザイナーよりも低いギャラだったとしても、普通ならひとりで抱えられる案件の量をはるかに超えていたとしても、依頼された仕事を全部受けてしまうのは、癖というか性分というか、もう仕方のないことなのです。


今年は子年。
つまりは年男。

次の子年までのラスト1週は、仕事をちゃんと選んでいければと思うけど、こんな僕にお仕事を依頼していただけることには、引き続き、感謝をしていきたいと思います。


事務所を立ち上げて、今年でまるっと20年。
ラスト1週。
踏ん張りどころ。
美人なしぐさ



デザイナーとしての僕を救ってくれた憧れのデザイナー、柳宗理さんはかつて、「本当の美は生まれるもので、つくり出すものではない」と言った。
デザイナーである僕らは、言うなれば産婆のように、「本当の美」が生まれやすくなるように導き、手助けをする役目でもある。
僕がいつも心に留めてる「指針」のような言葉のひとつだ。

一方で、良し悪しは別として、「美しい」という「印象」は、徹底的に細部にこだわり抜くことで表現することならできる。
ズボラでガサツな人より、言葉や所作が美しい女性に惹かれるのは、デザイナーならごく自然なこと。
もちろん、過剰で、演出じみた嘘っぱちの所作はたちが悪いし、ズボラでガサツだけどかわいい人っていうのもごくごく稀にいるけどね。


僕らデザイナーは、日々、広告で、文字で、レイアウトで、造形で、この「美しい」という印象の表現に挑み続けている。
男の色気、女の色気、人の色気。
車であれ、道具であれ、料理であれ、色気は細部に宿り、その蓄積によって醸し出されるもの。
本物の色気は決して隠し通せない。

どうすれば「美しい」を正しく表現できるのか。
そもそも「美しい」とはどういうことなのか。

そんな「美しい」という印象を完璧に表現できるデザイン力が欲しい。
パイクカーシリーズ



Be-1、パオ、エスカルゴ、フィガロ、ラシーン。
日産のパイクカーシリーズは輝いてた。
今でも、日産のパイクカーシリーズに乗ってる女子を見ると、もうそれだけで惚れてしまう。

日産はまた、マイクロソフト対マイクロソフトの戦いに突き進んでしまった。
マイクロソフト対アップルの構図にしなければ、トヨタにはきっと勝てない。
車のデザインも広告もCMも、全てが迷走の現れ。

奥さんの最初の車もBe-1だった。
あの頃の日産が恋しい。
草枕



山路を登りながら、ふと思った。
仕事や学業において優秀であればあるで角が立ち、情を持ちすぎてもそれに流されてしまう。
かといって、自分は自分と意地を通せば、余計な敵や対立を生み出し、なお窮屈になる。
人の世とは、どのみち、とにかく住みにくいものだ。

あまりにも住みにくいと感じれば、もっと良い場所へ引っ越したくなる。
でも、どこへ引っ越しても、所詮は同じ。
結局はどこに行っても、住みにくさは変わらないなと悟った時、詩が生まれて、絵が出来る。

人の世を作ったのは、神様でも鬼でもなく、所詮はただの弱き人間。
ただの人間が作った人の世が住みにくいからといって、ほかに良い場所などあるわけがない。
もし、そんな場所があったとすれば、それは人間ではない誰か、例えば鬼が作った国かも知れない。
であれば、そこはきっと、人の世以上に住みにくいに違いない。

そこがどこであれ、全てを自分の思い通りに出来ないのなら、そこが少しでも住みやすい場所になるように努力し、工夫するべき。
そのために、だからこそ、詩人や画家や文化が必要なのだ。

あらゆるアーティストやクリエイターの使命は、くだらない世の中を、少しでも良くするために、人々の心を豊かにすること。
だからこそ、尊い。
くだらない世の中から、くだらないモノやコトを消し去り、隠れて見えなくなっていた世界の真の美しさを、ありのままに映し出すのが詩であり、絵である。
または、音楽やアートも。
もちろん、詩人や画家のように、形にできなくても構わない。
ただありのままに、あなたの心の向くままに見つめれば、そこに詩が生き、歌が生まれる。



これは、夏目漱石が遺した「草枕」の冒頭の言葉(の僕なりの現代語訳)。
いくら時代が進んでも、変わるものがあれば、変わらないものもある。
100年しか生きられない僕らにとっては、今のこの世の中が全て。
今の時代が最高!と言うべきだろうが、そう言える確証はどこにもない。

でも、アートがある。歌がある。デザインがある。
文化は心を豊かにし、ただの景色を風景へと変えていく。
下品で汚い都会の夜の景色も、タクシーの後部座席から、ヘッドフォンで「ラストクリスマス」を聴きながら眺めれば、たちまちそこに、ロマンスの香りが漂ってくる。
単純で愚かでも、詩や歌は時に、ただの人をアーティストに変えてくれる。

文化が育たなかったら、世の中はどうなってしまうだろう。
夏目漱石の期待に、今のアーティストやクリエイター達は応えられているだろうか。


「あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。(原文)」


いつまでも、そうあってほしい。
そして僕も、そうありたい。
夏が終わった
徹夜明けの朝6時。
夜明け前の冷え込みは、もう本当に夏が終わったんだってことの証明。

今年の夏は、大した思い出も作ることもできず、つまらない夏だった。
来年の夏は、きっともっといい夏にしよう。


夏の終わりは、やっぱりこれが聴きたくなります。
歳を重ねるごとに、遠く離れていくたびに、強く強く、胸にしみる。


若者のすべて(フジファブリック)
https://youtu.be/IPBXepn5jTA


さあ、今日はこのまま仕事続行です。
デザイナーあるある







ボトルのパッケージをミリ単位でひたすら調整。
文字や要素ごとに「カチッ」って音が心の中で聞こえる位置をひたすら探す。
ひたすらひたすら、100回200回は当たり前。

画面上で拡大してミリ単位で調整して、印刷して、カットして、ボトルに当ててみて、また調整。
印刷すると小さい文字なので、普通ではその違いには誰も気づけない。

夜中の1時過ぎから始めて、現在夜中の3時をまわったところ。
2時間、もうずっとこの作業。
ひたすらに手や首や腰や足や目も痛い。
こういう夜にはチョコが欠かせないけど、減り方がやばいな。


デザイナーあるあるな作業。
世のデザイナーの皆様。
誰にも気づいてもらえなくても、誰にも褒めてもらえなくても、それでもただひたすらに調整しましょう。
変態とはそういうものです。
パッケージデザイン



僕の商品のパッケージデザインについての持論。

生産者や技術者や製造者が職人魂を込めて良品を生み出す。
ここを「A」とする。

ではそれをどう売るか?
どうすればたくさん売れるか?
ターゲット層を決めて、女性向けとか30代向けとかシズル感とかを考える。
ここを「B」とする。

※「B」から始めて「A」を作るパターンもありますが今回は「A」から「B」の場合です。


商品のパッケージをデザインする時、ほとんどの場合は「B」の中でデザインが行われ、決定される。
でも、本来は「A」の時にパッケージをデザインするべきだと思う。
「A」の時にパッケージをデザインして、それをどう売るかを「B」の中で考える、という流れが僕には腑に落ちる。

その商品に一番似合う服を着せてあげる。
その商品の本当のかっこよさや良い所を正しく表現する。
この段階では、ターゲット層はあえて意識しない。

つまりは当然、ターゲット層の好みに反するデザインになる可能性も大いにある。
失笑されるのはここだ。
それじゃあ売れない。
売れなければ何の意味がない。
お前はビジネスがまるでわかっていない。
だからお前は、と笑われる。

でも、だからこそ、それをどう「ガワ」でフォローしていくか。
それがマーケターやプランナーやバイヤー達の腕の見せ所でもあるはずだ。

例えば、伊勢の名物、伊勢うどん。
伊勢うどんの印象を聞いて回ったら、きっと「シンプルだけどインパクトもある」とかの意見が多いはず。
でも、世の中の伊勢うどんのパッケージは、ごちゃごちゃしたものがほとんどだ。


美味しくないものを美味しそうに見せるためにデザインがあるわけじゃない。
本当はそんなキャラじゃないのに、売れるために着たくもない衣装と作り物の笑顔で客に媚を売る昔のアイドルでもあるまいし、これじゃあ製造者や職人魂が浮かばれない。
三重県には、パッケージと中身の印象がまったく違う商品も多いし、店のロゴの雰囲気と料理の質が一致しないレストランがどれほど多いことか。
意味のない変なズレは、本当に気持ちが悪い。
このズレが、三重県の印象を益々ぼやけさせてしまう気がしてならない。