グレーな世界
車も壁も棚も飾りも文房具も、僕のまわりはグレー色だらけ。
僕がねずみ年生まれだからってわけじゃなく、単純に僕の一番好きな色だからなんだけど、グレーは「デザイン」ってものを一番よく表現している色だと思う。

世の中は、白が5%、黒が5%、残りの90%はグレーで出来ている、って誰かが言ってたけど、本当にそうだなと感じる。
だから、何かと白黒つけたがる人や、生きづらさを感じている人の大半は、このグレーに悩まされるんだろう。

政治の世界を見ればよくわかる。
どっちにも解釈できるように、ほとんどのことがグレーに作られている。
ピンチの時に、うまく逃げられるように。
まあ、これは悪い例だけど。


以前、代替案があるかないか、がアートとデザインの違いだと書いた。
デザインには常に代替案がある。
A案がダメならB案。
B案もダメならC案やD案やE案を生み出す。
だからこそ、グレーでないと成り立たない。

そう言うと、なんていいかげんでテキトーで曖昧なんだ、と思われそうだけど、僕はグレーな状態が心地いい。
おかげで、あらゆる意味で守備範囲はかなり広いほうだと思う。
それに、「テキトー」を辞書で調べると、「ある性質・状態・要求などに、ちょうどよく合うこと。ふさわしいこと。」とある。
だから別に悪いことじゃない。
グレーを「暗い・寂しい」と感じる人もたくさんいるけど、グレーは「静か」なところが、ちょうどいいんだと思う。
僕がグレーのニットを着ている女性に無条件で好感を持つのだって、たぶんそういう理由、なのかな?
僕が車を選ぶ時に、グレーかシルバーを最優先するのは、きっとそういう理由だと思う。
つやのないマットなグレーで、主役じゃなくても本当に実力や評価が高い人の事を指す「いぶし銀」って言葉もある。
なんかそういうの、いいと思う。


デザインを学ぶことは、グレーを学ぶことでもある。
それこそテキトーに、「グレデミー(グレー+アカデミー)」とでも名付けようか。
グレデミーで学べることは、もしかしたら白や黒よりもきっと真理で、生きづらい世の中を軽やかに生きていくための万能ツールだ。

グレーな世界を、どう走り、どう泳ぎ、どう飛ぶか。
全ての人がデザインを学ぶべき理由は、そんなところにもある。
モスのモッさん



僕は今、僕と同い年のモスのモッさんが3月いっぱいで引退のニュースになんだかよくわからない衝撃を受けてる。

https://bit.ly/3BoFwZh
クリエイティブな生き方
今あるもので満足しなさい?
今いる場所で咲きなさい?
そうできれば良かったけど、僕のような社会不適合者にはちょっとハードルが高い。

山があるなら超えていこう。
未経験のことだからこそ、まずは試してみよう。
こっちのほうが僕にはずっと楽。

こうでなければならない。
こうするのが一般常識だ。
そんな暮らしは、水槽の中みたいで息がつまる。


「欲しいものがわからないと、本当には欲しくないものに包囲されて暮らすことになる。」
(ファイト・クラブ)

本当に欲しいものは何なのか、本当に必要な人は誰なのか、本当に大切な真実はどこにあるのか、クリエイティブの視点を持っていない人にとっては、それが見えずらい世の中なのかもしれない。

クリエイターじゃなくても、クリエイティブな生き方はできるはずだ。
ミスマッチ



先日撮った、小さな漁港に放置されていた、はたらく車。
この当時の日産車は本当にかっこいい。
当時はさぞ活躍したんだろうけど、なんでこのままここに放置されることになったんだろう。

どんなに高級な車でも、燃料が入ってなければただの箱か飾り物。
車は自分で燃料を入れることができない。
だからどんなに優秀でも、燃料を入れてくれる人が不可欠なんだ。

悪いのは、役立たずになって放置された車ではない。
本来の役目は終わったとしても、別の役割を与えてもやらず、そのまま放置して知らん顔してる人間のほう。
アイデアとデザイン、そしてそこに愛があれば、問題は必ず解決できる。


そういえば先日の打ち合わせで、「ミスマッチ」の話になった。
三重に戻ってきて一番驚いたのは、それまで知らなかった良い素材なモノの多さと、それを台無しにしているデザインとのミスマッチの多さ。
カッコ良さの基準は人それぞれ違うにせよ、せっかくの良い素材を、なんでわざわざカッコ悪くするのかと憤りを感じることが多かった。
ミスマッチなモノやコトを見るたびに、欠けているのはやっぱり、アイデアとデザインと愛なんだと感じる。

だけど、同じミスマッチでも、人同士や組織間のミスマッチはちょっと手強い。
ミスマッチによって苦しんでる人がたくさんいる。
お互いの努力や協力によってどうにかなる場合はそれでもいいけど、求めてるモノやコトが違うのに、泣いたり苦しんだりしながら、それでも我慢して続けなきゃいけない理由って何だろうか。
何のために、誰のために、それでもそれを続けなきゃいけないんだろうか。

アメリカの第2代大統領のジョン・アダムスは、「忍耐と辛抱強さがあれば、どんな困難も障害も乗り越えられる」と言ったけど、この言葉の真の狙いはバレバレだ。
それよりも、スティーブ・ジョブスの「時間は限られているのだから、他人の人生を生きて自分の時間を無駄に過ごしてはいけない」という言葉のほうがしっくりくる。

時を重ねてベストマッチになっていく場合もある。
でもそうじゃないなら、無理して続けなくてもいい。
別の道がきっとあるはずだから。

モノもコトも人も、ミスマッチのまんまじゃ誰もハッピーになれない。
モノもコトも人も、勇気やタイミング、アイデアやデザイン、そして愛が大切なんだ。

その車も、その素材も、その工芸も、その土地も、その人も、きっとハッピーになるために生まれてきたはず。
目の前の問題が、越えるべきハードルなのか避けるべき壁なのか、正しい判断が必要。
最後まで諦めずにそれを見つけ出すことが、僕らデザイナーの仕事なんだと思う。


あと2か月で僕も50歳。
子どもの頃なら格好の遊具となっただろうこの放置された車に手をかけて、がんばったのになあ、もう誰も気にとめてもくれないんだなあ、そんな風に声をかけて、こんなことに感傷的になってしまうほど、僕も年を取ったんだなあとしみじみ思った。

とある本の「50歳」に関するページで、
「どれだけ偉ぶっていても、愛される人にはかなわない。」
という、トヨタの広告のコピーが紹介されていた。

40代も色々あった。
あっという間だったと思う。
色んな人を愛したし、色んな人に愛された。
色んな人を傷つけたし、色んな人に傷つけられた。

ベストマッチだらけだったと言いたいけど、現実はそう上手くはいかない。
それぞれの人に、それぞれなりの愛や正義があって、でもそれが必ずマッチするとは限らない。
どれだけ愛しても届かないことだってあるし、どれだけ愛されたとしても、偉ぶってる人に勝てないシーンもある。

ただ、本来の役目は終わったとしても、別の役割を与えてもやらずそのまま放置して知らん顔してるのは、あまりにも愛がない。
偉ぶれるほど偉くもないのなら、せめて次のベストマッチを考えてあげよう。
放置された車を愛してくれる誰かがきっとどこかにいる。
それがアイデアであり、デザインのはず。


デザイナーとしての僕の役目が終わるのはいつだろう。
もしもそのまま放置されるとしたら、自分で終わってることに気づいていないからかも知れない。
そうならないためにも、ミスマッチを我慢せず、別のベストマッチを探すのもひとつの手だ。
心から愛されたと言える50代を過ごすために。
波の音



シンドイ時は、海へ。
どっちかと言うと山派なんですが、徒歩圏内に山がないので残念。

子どもの頃は、松阪の実家の裏山が遊び場だったな。
木や葉っぱや昆虫や石とかの見事な模様を夢中になって見てた。
目を閉じて耳を澄ますと、色んな音が聴こえてきた。
自然のオーケストラ。
山登りやスキーとかにはあまり興味はないけど、小さな発見のための山遊びは今でもしたいな。


ただ波の音を聴く。
ただそれだけの時間。
贅沢な時間とかリフレッシュとか、そういうんじゃない。

ただひたすらに、ただ静かに、波の音を聴く。

ただ、それだけ。
激強打破



さあ、今日も愛車とともに、「激強打破」2本イッキ飲みでレッツゴーです。
アパート





やばい、かわいい。
このサインだけで、このアパートに住みたくなる。



先日、NHKのラジオ番組に出演させていただいた際の記念撮影。
担当アナウンサーの高橋美帆さんとは初対面でしたが、気さくでありながら気品があり、優しい声のとても素敵な女性でした。

こういう時にいつも感じますが、「声」の威力や魔法ってやっぱりあると思います。
僕は昔から、声だけでもその人のことが好きになれるほどの声フェチなので、特にそこに敏感なのかも知れませんが、心にすうーっと染みてくる声というのがあります。

昔から芝居の世界では、良い役者の素養として、1番大事なのは「声」で、2番目に「顔」、3番目が「姿」と言われているそうです。

演劇評論家の小田島氏も、「言葉は耳から頭へいくが、声は耳から胸にくる」と言っているし、アメリカの天文学者、ボーエルも、「声は第二の顔である」と言っている。

声に自信のない僕なんかは、なんだかそう考えるとちょっとへこんでしまいますが、確かに声の印象ってのは強いし、声だけで心をつかめる素敵な声の持ち主がうらやましく思います。

たぶん、普段から話す言葉や口調やトーンやボリュームや姿勢や行動によっても、声は良くなったり悪くなったりするんだろうなと思うし、姿勢を正して、良い言葉をたくさん話したほうが、声にも艶が出てくるようにも感じる。

ただ、声の出せない方達と比べると、僕なんかはコミュニケーションの際に「声」や「話す」ってことに頼りすぎてしまっている点は反省が必要で、身振り手振り、服装、表情、仕草、そういうことで伝える、読み取る、そういうスキルをもっと磨かないといけないなと思う。


収録されたものを聞き返してみて、僕のまあなんともしわがれた声よ、と落胆もしてしまいますが、この声は僕だけのもので、唯一のもの。
いつ声が出なくなるかも知れませんが、それまではこの声を大事にしていきたいと思います。
2022年



僕を「優しい」とか「暖かい」とか言ってくれる人がいる。
それは僕があなたのことが好きだから。
僕を「感じ悪い」とか「こわい」とか言ってる人がいる。
それは僕があなたのことを好きじゃないから。

今年も大好きな人たちとの時間を大切にしよう。
大好きだと思える人との新たな出会いを楽しみにしていよう。
その過程では色んなことが起こるだろうけど、物語にはつきものだから。

2022年も、どうせ相変わらずの僕でしょうが、何卒よろしくお願いいたします。
さよなら、2021年。
大好きな人には、遠慮せず、臆せず、わきまえずに、素直に大好きと言おう。
好きじゃない人や仕事からは、不安がらず、恐れず、悪びれず、すっぱりと距離を置こう。
楽しいと思えない仕事や心が動かない案件は、それを楽しいと思える誰かに代わってもらおう。
人が生まれてきたことに意味などなくて、生きていくうえでの意味を欲しがってるだけ。
だから最初から決まっていたと思わずに、自分で好きなように意味を作っていこう。
僕が生まれたのは君に出会うため、それでもいい。
私はここへ来るべくして来たのだ、それでもいい。
曲は勝手に生まれて、どこからともなく流れてくるから、あとは自分で自由に詩をつければ、それでいいんだと思う。

なんとなくそんなことを思った、2021年の年の瀬。
2021年も本当に色んなことがあって、新たな発見、ずっと思ってきたことの確証、良き出会いと別れ、ここで終わること、ここから始まること、時々心が追いつかなくなるほど、なんだかんだと目まぐるしい1年でした。

今年も本当にありがとうございました。
僕が大好きな人達にとって、今までで一番最高だったぜ!って思える2022年でありますように。

では、よいお年を!
アシスタントさん



独立して22年目。
毎日の僕のスケジュール管理、販売、接客、商品開発、企画立案、デザインのオペレーター業務などなど、破滅的に記憶力の乏しい僕をサポートするために常に同行し、募集要項に書いてなかったことばっかりやらされてるのに、愚痴を言うどころか、毎日楽しいです!っていつも笑顔でこたえてくれる、東京時代から数えて三代目となる、今の僕のアシスタントさん。

当たり前だけど、感謝しかない。
環境としての親



前回に続き、子どもというキーワードで思うことは他にもあります。
僕はただのデザイナーであって、子どもの専門化でもなければ、何か根拠があるわけでもないし、それぞれの家庭にはそれぞれの事情があることも承知しながら、あくまでも個人的な考察として書きます。


例えば、親からの愛情の貯金があまりにも不足したまま大人になってしまった人が、その不足分を恋愛や仕事などで必死に埋めようとするけれど、そもそも口座が違うのでそこに求めていた愛情は貯金されず、不足は不足のままいつまでも埋められずに病んでいくケースが僕のまわりでもわりとあるなと。

もちろん、親は親なりに一生懸命に愛情を注いできたのかも知れません。
でも問題は、子どもが求めているものと違うものをいくら一生懸命に注いでも満たされることは決してないということ。

確かに、心の健康は「環境」によるところが大きいのかも知れません。
ただ問題は、親である自分自身を「環境」に含めていない場合が結構あること。

例えば、映画とかで、母親が愛する子どものために環境を変えなきゃと言ってダメ夫と離婚して見知らぬ土地へ引っ越して再出発、という場合に、もしも問題の「本質」が母親自身にもあった場合は、どんなに環境を変えても、どこまで遠くへ行ったとしても解決はしません。
この場合の問題の本質とは、母親がアル中だとか、そういう意味でのダメ親ってことじゃなくて、子どもにとっては、ママと一緒にいる時間がもっと欲しいとか、話をただ聞いてほしいだけ、だったりします。

ですが、子どものために一生懸命に働けば、必然的に子どもと一緒にいれる時間が少なくなります。
このジレンマを軽率に語ることはできませんが、果たして子どもがそれをちゃんと理解できるかどうか。


デザインは「装飾」ではなく、問題を正しく見つけ出し、それを見事に解決するためのツールです。
ビジネスの世界でも、この「環境」の設定がズレているケースをよく見聞きします。

例えば、社長が社長自身を「環境」に含めていない場合、人を変えようが設備を変えようが場所を変えようが、根本にある問題は変わりません。
もちろん、社長の会社ですから社長の自由なんだけど、問題の本質が「そこ」にあることを確信しながら、小手先の解決にいくら取り組んだとて、劇的な変化はなかなか起こせません。

ましてやそれが家庭のこととなると、ロジカルに論理的に建設的にとはなかなかいかないのが普通。
子どもが心に何を抱えているのか、それを子ども自身が完璧に説明できるわけがありません。

先述のケースでは、その子どもが親のことを心底大好きな場合が多いのも特徴です。
そして、勘の鋭い子は大好きな親を困らせたくないと自身を律しようともがきますが、子どもですから、うまくいかずに心と体のバランスを崩したりします。
そんな時に、この子には学校が合わないとか、友達づきあいが苦手だからとか、常に問題を親自身から離して考える人が多いことが気になります。
ましてや、この子は我慢強くて理解が早くて手のかからない子だから助かる、なんて悠長に言ってていいものなのかなと。

頭ではわかっているつもりでも、自身も「環境」の一部であることを正しく認識できている人は意外と少なく、だからこそ、自分から見えている景色ではなく、相手から見えている景色をちゃんと想像できる想像力が必要不可欠。
相手の視点の先には自分がいます。
それがちゃんと想像できれば、「環境を変える」ってことに自分自身も含まれていることがわかるはずです。


自分は誰よりも頑張っている。
そのことは決して否定しません。
でもやっぱり、相手が求めているものと違うものをいくら一生懸命に注いでも、満たされることは決してないのです。

子どもの目には、自分はどう写っているでしょうか。
「機嫌がいい」と「優しい」をはき違えてしまっていないでしょうか。
豊かな想像力がないと、事実ばかりに目を奪われて、真実が見えなくなってしまう。
それはとても怖いことだと思います。

仕方なく不足のままで大人になってしまった人にとって大切なのは、何が問題の本質で、どうすれば正しい方法で「他のもの」で不足を埋められるかを一緒にデザインしてくれる人に出逢えるかどうかだと思います。

もっと複雑で、決して安易に語れることじゃない。
それも重々承知です。
ただ、間違いなく親から子への「連鎖」は存在します。
どこかの段階で誰かが断ち切るまで。


長々と偉そうに書きましたが、あくまでもひとつの意見。
皆さんの中で、考えるきっかけのひとつになれば幸いです。
お祭り



お叱りを受ける覚悟で書きますが、僕はこれまで、「文化」が大事とあちこちで何度も言ってきました。
少々大げさかも知れませんが、文化は私たちの暮らしや未来にとって、大切なものです。

ですが一方で、文化とは程遠い、文化のふりした悪しき風習もあるように思います。
それがよく表れているのが、文化の象徴のひとつである「お祭り」ではないかと。

個人的な経験則ですが、良い祭りとダメなお祭りを何が分けるのかは、子どもたちの扱い方を見ればわかる気がします。
だけど、子どもたちを大切にしているお祭りを、僕はあまり見たことがありません。


例えば、僕が育った地域には、家を建てた時やお祭りの際に、高いところから餅やお菓子をまく「もちまき」という風習があります。
もとは災いを払うために行われた散餅の儀が由来で、山口県では、「餅ひろい世界選手権」まであるそうな。
三重県では、家を建てた際に「もちまき」をするところはかなり減ったと思うけど、お祭りでは今でも時々見かけます。

一見すると良い風習に見えますが、実際は、まるで何かに憑りつかれたかのように、飛んでくる餅に必死で飛びついて、恐ろしい形相で大人たちが餅を奪い合う凄惨な光景があって、周りが見えなくなっている大人たちが暴走し、餅ではなくお菓子をキャッチするために前のほうに寄ってきている子どもたちをなぎ倒して餅に飛びつくバカ野郎が必ずひとりやふたりはいたりします。
泣き出す子どもや、ケガをする子ども、子どもの代わりに必死でお菓子に飛びついてあげているお父さんたち、etc。

子どもたちが安心してこの文化を楽しめるように、専用ゾーンを設けている「もちまき」はほとんどないんじゃないでしょうか。
それに、この激しさも文化のひとつで、これも良き思い出となるのだ、これこそ祭りの醍醐味だ、そうやって大人の階段をのぼるのじゃー、などとほざく大人には呆れてものが言えません。

例えば、かの有名な「ねぶた祭」などはどうでしょう。
子どもたち専用の、会場で一番ねぶたがよく見える一番の特等席を用意してあげているのでしょうか。
僕には、一番前を大人たちが独占しているイメージしかありませんが、実際はどうなんでしょう。

花火大会だってそうです。
議員か誰か知らないけど、そういう大人が特等席にいたって何の意味もありません。
その場所こそ、子どもたちに譲ってあげるべきではないでしょうか。

祭りの会場には様々な出店があって、かき氷やポテトなどはどこも行列ができています。
祭りの楽しさを演出する大切な風習ですが、これも、子どもたちには優先権があってしかりだと思います。
だけど、子どもしか興味のない出店以外は、どこのお祭りも「平等」に大人も子どもも同じ列に並びます。
それは良いことだという意見もわかりますが、見直してもいい常識ではないかとさえ感じます。

もちろん、お祭りが大好きな子ども達もたくさんいるし、大人達が楽しんでいるのを見て、いつか自分も大人になったら、あんな風にお祭りを盛り上げるんだと、それを楽しみに大人になっていく子ども達がいることも知っています。
ですが、そうやってうまくいっているお祭りが全国にいくつあるでしょうか。
多くの子ども達にとってのお祭りの楽しみは、出店、友達、恋人、賑やかな雰囲気、とかが多いのではないかな。
そのお祭りにはどんな歴史や意味があるのか、それを楽しみながら知ってほしいと思うし、そうでなければもったいないと感じます。

文化とは「つないでいくもの」で、大人優先で楽しめるように設計されたお祭りは、いずれ消えてなくなると思う。
もちろん、子どもたちが十分に楽しめる工夫があるお祭りもあるはずだと思うし、そういうお祭りがもっともっと増えてほしい。

本来伝えたい文化の良さを伝えられず、本来味わってほしい文化の楽しさを味あわせてあげられなくて、どうやって文化をつないでいけるというのか。
だれがそんなものをつないでいきたいと思うのか。

極論かも知れないけど、子どもたちが一番楽しめる工夫がしてある祭りでなければ、それをする意味などないと、僕は思う。
長女の11歳の誕生日



12月10日は長女の11歳の誕生日でした。
妹(7歳)から、大好きが溢れてる手紙とプレゼントをもらって本気で喜び抱き合う11歳と7歳のやりとりを見ていると、姉妹ってなんだかいいなあって思います。


伝える言葉は何年経っても同じ言葉。
生まれてきてくれて、本当にありがとう。
僕の人生に、こんなにも素敵な宝物を、ありがとう。
笑った顔



We know from daily life that we exist for other people first of all, for whose smiles and well-being our own happiness depends.
(ほかの誰かの元気な笑顔のために自分が生きていることを、私たちは知っている。それは自分の幸福を支えてくれているんだ)
By アルベルト・アインシュタイン


家族、アシスタント、友達、クライアント等々、1日1回は必ず誰かを大笑いさせること。
たぶん僕の唯一のルーティーン。

中学生の頃、笑った顔が気持ち悪いと冗談交じりに言われてから、写真ではかたくなに笑わないでいた。
そして大人になって、あなたの笑った顔が好き、と言ってくれた女性と結婚した。

笑う門に、いくら待っても福が来なくたってかまわない。
とびっきりの気持ち悪い笑顔で、こっちから迎えに行ってやる。

ご迷惑でしょうが、これからも、くだらないことばっかり言ってるふざけたオヤジで生きていきます!
奥の細道



コロナ以前へ「戻ろう」とする人たちと、コロナ時代の先へ「進もう」とする人たちと、その狭間でうろたえ、迷い、留まる人たちと。


月日は二度と還らぬ旅人であり、行きかう年もまた同じ。
船頭として舟の上で人生を過ごす人、馬子として愛馬と共に老いていく人、かれらは毎日が旅であり、旅が住いなのだ。
(奥の細道)

川の流れは絶えることはなく、それでいてそこを流れる水は、同じもとの水ではない。
川のよどみに浮かぶ水の泡は、一方では消え、また一方ではできて、そのまま長くとどまっている例はない。
世の中に生きている人とその人たちの住処もまた、ちょうどこの川の流れや水の泡のようなものである。
(方丈記)


できるなら、僕もそうでありたい。
もめんノート



今夜はお通夜、明日は告別式。
身近な人の死は、自分の残された時間について考えさせられる。

亡くなったあとはあとで、色々と残された問題や課題も多い。
やはり故人が、生前のうちに色々と決めていってもらえると助かります。

ところで、我が故郷の松阪市には、500年続く伝統工芸「松阪もめん」がありますが、この「もめん」と、残された家族で揉めないでね、という意味の「揉めん」を掛け合わせた、「もめんノート」という名のエンディングノートがあるそうです。

ただ、「死人に口なし」とはよく言ったもので、本人は家族葬を希望していたのに、結局大掛かりな葬儀になってしまうパターンって多いので、エンディングノートにどこまでの効力があるのかは不明ですが、それでも、何かしらの意志は示しておいたほうがいいのかなと思います。


上の娘は、「もめんノート」と聞いて、「おっぱいが揉めん」と言ってひとりでゲラゲラ笑い転げてますが、こういう強靭なメンタルの持ち主はきっと後悔のない人生を送るのでしょうね。

羨ましい。


▼伊勢新聞の記事
https://www.isenp.co.jp/2020/09/01/49445/
たろか星人



松阪牛などで有名な僕が生まれ育った愛すべき故郷、三重県松阪市。
そこで暮らす松阪人を、別名「たろか星人」と僕は呼んでいる。

「教えたろか?」
「代わりにやったろか?」
「反対側、持っとったろか?」
「後で持ってきたろか?」
「お茶いれたろか?」
「呼んできたろか?」
などなど、悪意はないだろうが、とにかく押しつけがましい。

その後、25歳から東京で暮らすようになって、その違いに衝撃を受けた。

「お教えしましょうか?」
「私が代わりましょうか?」
「反対側、持ってましょうか?」
「後で持ってきましょうか?」
「お茶いれましょうか?」
「呼んできましょうか?」
などなど、とにかく押しつけがましくない。
なんてスマートなシティなんだと、よし、これからは俺も真似をしよう!と心に決めた。

それから24年後、三重県へ戻ってきて8年が経った今、ついつい僕も、「たろか星人」がひょっこりはんする。
もちろん悪意などないが、慣れというのは本当に恐ろしいものだ。
皆さんも、お気をつけて。
ドS度診断
息抜きにネットで見つけた「ドS度診断」。
項目に何個当てはまるか、だそうで、見事に全問パーフェクトで当てはまり、「真性のドS」との診断。

もちろん、とうの昔から自覚しております。
さらに、うお座の人にはドM気質の方が多いようで、僕とは相性がいいそうです。

うお座の方、お友達になりましょう(笑)。
伝統と発展



ファッションには縁もゆかりもない人生を送ってきたし、まるで興味もない僕が、「VOGUE」を定期購読していることはこれまでにも何度かお伝えしてきた。

思うにファッションとは、カルチャーや時代のメッセージを伝える最も優れたメッセンジャーだと思う。

昨日もネットニュースの中で、シースルーは、多くの人が「自己開示(見られたい)欲」を求めている時代に流行する、とあったことからも、その時代の匂いや情緒を色濃く反映しているものなのだなと、ど素人の僕のものすごく浅い考えだと思うけど、そう感じる。

折しも、今号のVOGUEのテーマは「TRADITION AND PROGRESS/伝統と発展」。
カバーには、「伝統は可能性の宝箱」とある。

いつも楽しみにしている編集長のコラム欄には、「伝統があるからこそ進歩もある。(中略)人こそが伝統をつなぎ、新たな伝統を紡いでゆく存在である。」と書かれていた。

ファッションが「時代」を映す鏡であるなら、ファッションが伝統技術や伝統工芸からいまだに多くのことを学び得ようとしていることに心が躍る。
伝統工芸の再興を夢見る僕にとって、ファッションは多くのヒントを与えてくれる。
出来ればその流れで僕の服のセンスも向上すればいいんだけど、残念ながらそれは別の問題のようだ。

以前、ネットで、VOGUEは商業主義の三流雑誌だと言うコメントを見たことがある。
VOGUEが三流なのか、では何が一流なのかは僕にはさっぱりわからない。

学びの種は無限なのだから、VOGUEからでも、町内誌からでも、学べることはたくさんある。

例えば今号のVOGUEの中で、色々な伝統工芸品を、種類別ではなく、ポップ、ナチュラル、ミックス、モダンなどのカテゴリーで分けて紹介していた。
これは、伝統工芸のお店を作る際にも大いにヒントになると思う。

松阪木綿か伊勢型紙か、ではなく、ポップかモダンかで分けてご紹介することで、新たな魅力の発見に繋がるかも知れない。
まあ、そんな単純なものではないとお叱りを受けるかも知れないけど、それぐらい単純にすることで見えてくることもきっとあると思う。