景色と風景

三重県に戻ってきてから、「目的と手段」という言葉を使うシーンが増えた。
なにも、どこぞのコンサルみたいに、ただそう言いたいだけなのとは意味が違う。
本当にそう言わざる得ないことが多いのです。
そして、「目的と手段」と同じくらい口にする機会が増えたワードは、「景色と風景」。
あくまでも僕個人の勝手な解釈ですが、似て非なるこの景色と風景、ものすごく雑に言ってしまえば、目に見えるものを景色、それに加えて目に見えないものも含めたのが風景だと考えています。
つまり、風景には、その土地の「文化」が含まれていて、目に見えるものと目に見えないものが常にセットになっていると考える必要があります。
よく、家族の風景と言いますが、家族の景色とはあまり言いません。
それは、そこに文化、風習、関係性などのドラマやストーリがあるからです。
どっちがいいとか悪いとか、そういう話ではなく、その中から、見た目の部分だけを抜き出したのが景色なんだと思います。
なので、いきなり風景を作ることは不可能です。
文化やドラマが育っていないうちは、まだ風景にはなれません。
楽しいことだけでもないでしょう。
悲しい歴史や辛い出来事もあったはず。
風景とは、その積み重ね以外の何ものでもなく、最初はただの景色だったものが、やがてそう呼ばれるもの、であるはずです。
さらに、たとえ同じ場所に立っていても、そこがいくら歴史のある場所でも、ある人にとってはただの景色で、ある人にとっては風景だったりします。
同じものを見ているつもりでも、実際に見えているものは全然違う。
まるで、だまし絵のように。
そこがズレている関係は、遅かれ早かれ道を分かつことになります。
三重県には、素晴らしい景色も風景もたくさんあります。
なのに、それらが正しく活かされているとは思えません。
きっとそれは、景色と風景の違いが理解されていないのと、理解する術を持たないからでしょう。
学校でも教わらないし、そもそもそれを教えられる先生なんてほとんどいません。
三重県だけではないと思いますが、そこに素敵な文化が生まれ育つ土壌ができていない。
いや、かつてはあったのかも知れませんが、今の状況を見ると、育てるつもりがないようにさえ思えます。
誰もが結局は、自分のことばかり。
木だけを見て、森を見ていないし、感じようともしない。
狭い世界しか知らない人、広い世界を知ろうともしない人ほど、「みんなを」とか「みんなで」という言葉を軽々しく使う。
多様性の本当の厳しさを知っている人は、その言葉の重みを知っています。
デザインは、根っこからデザインして、はじめてデザインと呼ばれるのです。
そして僕らの仕事は、まさに風景を作っていくこと。
長く続く仕組みを考え、登場人物のために大まかな道筋や、舞台、ステージ、小物、時間などを丁寧にデザインする。
あとは、そこに色々なドラマが生まれ、やがて風景と呼ばれるまで、寄り添っていきます。
それがモノであれ、場所であれ、人であれ。
だから時間もかかるし、手間もかかる。
なかなか理解してもらえないことですが、それが真実です。
やがて風景と呼ばれるもの。
そこに寄り添う仕事。
ドラマのない人も場所も存在しない。
そこには必ずストーリーが生まれ、育っている。
息を合わせて、手を繋いで、どうせなら、素敵な風景をご一緒に。
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